補助具が躰を支える音、クラッチを床に突く音、そういうものが先を歩くロックオンを追いかけて響く。
「リズムいいな。上手くなったか?」
「問題ない」
「お前、そればっか」
 つまんねえな、と笑う。名目上の謹慎という安静期間を経て、刹那は現在治療と単調な筋力強化訓練、体力維持に終始している。リハビリは見た目よりもずっと苦しいものらしいが、彼は相変わらずだ。
 マイスター候補としては、ゼロよりもマイナスを弾かれた。その割りに、というより意外なほど当の本人は淡淡としていた。ロックオンも別段庇いはしなかったし、そんな必要はないと思ってもいた。何もかも、なるようにしかならない。
 事態を知ったアレルヤは、刹那を考えが足りないと叱り飛ばした。
 その後で、真っ当に負傷の心配をした。二人だけになったとき、何かいいたそうな顔でロックオンに複雑な視線をくれたが、同時にこちらの心配もしているようだった。あいつはあいつで結構な馬鹿だ。
 医療室のベッドで一度目覚めた後も、刹那は昏昏と眠り続けた。
 熱のためでも薬のためでもなく、負傷を眠って治そうとしているのではないか、と医者は首を傾げつつ所見を述べた。痛みや柔い部分を極力排したような無機質な表面と、芯の所では酷く獣のような彼の剥き出しの命のありようにロックオンは少し呆れた。寧ろ野生の生き物に似て、彼は痛みを見せたがらないのかも知れない。それが死に直結するものだと無意識が訴えるせいで。
 近付けば眼を醒ます。が、またすぐに深い眠りに戻る。
 それはまさしく、手負いの獣が傷を治すための時間のように思われた。
 自分の部屋に戻ってもその傾向は変わっていない。刹那はまるで、不眠症という言葉をすっかりどこかに置き忘れてきたような具合だ。誰が何といおうと、ロックオンはそれを不幸中の幸いだとは思わない。
 何しろ、安静期を過ぎた後の刹那の眠りは、有り得ないほど物騒だったので。
 かしゃんごつ、と一定だったリズムが崩れた。刹那は壁に片腕を突いて、何とかバランスを取っている。
「まだまだだなあ」
「煩い」
 ほら、と握手でもするように差し出した手は、たいそう胡乱げに眺められた。にやりと片頬を上げる。
「あ? いらないか、補助」
 却って姿勢が崩れる、と少年はにべも無い。
「いっそ運んでやろうか、前みたいに」
「……嫌がらせだな」
「お前軽いよ、今のうちに増量しといたらどうだ」
「脚に負担が掛かる。それに、必要十分な食事量は摂取している」
「へえへえ、そういや医者がいってたぞ。お前の左脚、今物凄い勢いで新しい骨が形成されてるから、左右差が出るかも知れんとか何とか。リハビリメニューの見直しもあるそうだ」
「だから、どうしてお前が先に知っている」
「そりゃ、監督者だからな」
 ―――あ、臍を曲げた。
「オーヴァトレーニング止めたら身長も伸びそうだってんだから、いいじゃねえか。羨ましいねえ、成長期」
 ひらひらと軽薄に手を振ったロックオンを、クラッチを使う刹那が追い越していく。思春期、という言葉が頭に思い浮かんだ。あんまりそぐわないので、つい、小さく噴出した。
 数歩先で、ぴたりと止まった刹那が躰ごとこちらを振り向く。
「そういえば、あんたは俺が嫌いだったな」
 確かにあの時そういった。否定する気は今も無い。
「だったら?」
「俺も、いっておくことがある」
 無理矢理平衡を取りながら、ぬっと伸びた腕が、ロックオンの胸倉を掴んだ。流石に行き成り殴られるとは思わない。大体、殴ったところで刹那のほうが被害を受けそうだ。まさか、諸共倒れても一発入れたいなどということはあるまいな。そんな逡巡がロックオンの自由を奪った。
 ―――結構な非道を行った自覚はあるのだ。
 いっかな刹那でも、傷めた患部を鷲掴みされたのでは、たまったものではないだろう。ただ、やっぱり訂正する気もなければ、謝ろうとも思わないだけで。
 メーターが可笑しな振り切れ方をしたように、刹那に対してロックオンは何かが振り切れたような気がしている。過冷却された水が些細な衝撃によって一瞬で固まるように、振り切れたままあの瞬間に凍りついたような。
 クラッチが音を立てて倒れた。
 胸倉を掴まれたままぐいと体重を掛けられる。腰を折るような体勢に刹那が本気で殴る用意があるのだと感じた。
 赤褐色の視線が近い。そして、片眼を生温かなもので塞がれた。
 否―――水分を含んだ柔らかな肉が、人間の一番無防備な部分をなぞり上げる。
 舐められた。
 瞬間、ぞわりと総身を走り抜けた奇妙な感覚も、この状況も、全てにおいて現実味に欠けていた。言葉が出ないまま、とん、と胸を押されての離れ際、刹那が告げた科白にまた眼を丸くした。
「俺に、触れるな」
 そうかいこの糞餓鬼、と途切れがちに漸うのこと搾り出す。振り切れて凍りついたメーターの、針が飛ぶ。
「お互い様だ」
 しかし甘くも冷たくもないな、とどこか不満げなのはどうした訳で、一体なんの文句かとロックオンは蟀谷を引き攣らせた。あろうことか、舐められたせいで風が抜けるような眼を、庇うように片手で覆う。矛盾を為すのをお互い様というのなら、心臓が幾つあっても足りないような思いも刹那は知るべきだ。
 さっさと遠ざかっていく背中を、取り合えず掴まえるところから。


2008/02/07 LIZHI
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