「やれやれ、怖い保護者だな」
 取って喰われるかと思って冷や冷やしたよ。医者の言葉はぼんやりと聞こえていた先程の遣り取りとはまるで矛盾している。だが、それを指摘する気にはならなかった。
 息を吐く。肋骨が膨らみ萎む運動を思い出す。同時に総身の力が抜けた。熱があるんだよ、といわれて初めてこの躰の重さはそのためかと気が付いた。
「少し休んだほうがいい。どうも無茶をしたようだからね」
 平気だ、と刹那は応える。休むのならば与えられた部屋に戻ればいい。そこに彼がいる、という事実が幾分返事を躊躇わせたことに気が付いたが、だからどうだというのだろう。
「診察もさせない気かい?」
「問題ない」
「バランスの悪い子だ。けど彼の気持を無にするのは感心しないね。それに」
 不意に左足を持ち上げられる。それだけで刹那の上体がぐらりと崩れた。連結の悪い躰、泥河を渡る苦行は何時の間にか千の毒蛇に噛まれる苦痛に転化した。それがいつか、と考えて、まるで考えてはいけないことのように意識が宙に浮いた。
「そういうのは我慢強い、とはいわないんだ」
 声が遠い。小さな、衝撃ともいえぬ衝撃が襲う。プシュ、と空気の抜けるようなこれは注射の音だろう。
 あいつの声は、あんなに近かったのに。

 ―――空が燃えていた。
 何を視ている、と後ろから声がした。ひとりだと思っていたそこにいつのまにか男が立っていた。まだ若く逞しく、力強い声の。皆の尊敬はその男の上にあるのだと、どんな子どもであっても知っていた。何故なら彼は代弁者であったから。
「何を視ている」
 聞こえなかったと判断されたのか男は同じ言葉を重ねた。
 これといって、何かを見ていたのではなかった。ただ、赤茶けた視界に入ったものを言葉にした。 「人を」
「あれは皆死体だ」
「死ねば、人ではなくなるの」
「お前が戦って死ねば神の御許へいく。それ以上に重要なことがあるか?」
 首を振る。何故なら誰もそれ以外を知らなかった。男は能く出来たと褒めるように微笑んだ。
 ―――我らは神の戦士だ。俺もお前もここにいる皆そうだ。我らの真の心臓は既に神の御許に捧げられた。故に、仮令この世の肉は傷つこうとも我らの真は傷つかぬ。
「恐れることは何も無い。お前は、強い男になれるぞ」
 頭の上に載せられた手が大きかった。男はそれきり離れていったが、確かに何かを思い出させる重さと大きさだった。
 戦場に、男の声だけが響く。遠く、近く、けれど姿無く。
 命を捧げれば神は愛してくれるのか―――。
 命を捧げねば神は愛してくれぬのか―――。
 愛とはなんだ。何故愛さねばならぬのだ。どうしてそれはこの貧しい土地で、生きる意味と同じか以上の質量を持ち得るのだろう。それを意義というのか。搾取され侵略され服従させられる世界に生まれ落ちた意味だというのか。
 愛は断たねばならぬもので。
 情は切らねばならぬもので。
 真は神の世界にあるのだからと、そこにしかないのだからと、そういったのはあの男の口ではなかったか。
 歪む、歪んでゆく―――熱によって。
 赤い髪、炎を思わす赤い髪。燃える空よりも赤く鬼神のように強い、誰よりも強い男。誰より誠実に誰より真実の尾を掴ませなかった男。
 お前は神の代弁者だったが。
 神は果たしてお前の後ろにあったのか。
 前にも後ろにも右も左も頭上にさえも、お前に神があったと思ったことは―――本当にはないのだ。
「刹那」
 それは俺の名前ではない。
 ならば俺の名前とは何だ。
 それを与えたのは一体誰で、お前はそれをどうやって捨てて来た。最悪なことに捨てた自覚すらなく、存在しなかったものと同じにしたのはどの手が。
「痛いなら、そういえ」
 いえるものか。死ぬまで。いいや仮令死んだとていえるものではない。怖いのだ、恐ろしいのだ。俺は俺こそが恐ろしく誰よりも何よりも信じ難いのだ。
 神でもあの赤い髪の代弁者でもない。
 この世で本当に信用できないものは―――自分だ。
 浮遊しているくせに落ちている。
 薬の所為だ。
 随分と久しぶりに味わう頭蓋と肉体の断絶だ。開かない瞼、小指一本動かぬ肢体。この途方も無い無感覚。
 眼を醒ませば、小さな死は終わる。
 眼を醒ませば、赤い髪の男は消える。
 眼を醒ませば、そこに水の色が見えるような気がした。


2008/02/07 LIZHI
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