事実、潮音を立てて下がった血の気が足の裏まで到達した瞬間、それ自体が発条になったかのように駆け出していた。
 ロックオンが辿り着いた通路の先で、刹那は壁に躰を凭せてしゃがみ込んでいた。
 意識があるのかないのか、赤褐色の虹彩は絞られるような瞼によって隠されている。蝋のような顔色をして、完全に適温のはずの空調にも拘らず汗が浮かんでいた。
「刹那、おい返事しろ!」
 誰かがロックオンの肩を抑えたが、それどころではない。体調が悪いのかどこかを痛めたのか、動かして善いのか悪いのか、もし頭を打っているのなら医者のほうを呼んでこなければならない。それよりも何よりも、兎に角先に返事をしろと遠慮の欠片もなく頬を叩いた。二度三度、それ以上の回数、刹那の小さな頭が揺らいだ。
 この眼が開かないのが一番怖い。
 ふっと気配が変化する。白刃を思わせるそれには覚えがあった。
「馬鹿! 俺だ! ロックオン・ストラトスさまだ、この大暈けがッ」
 眼が開かなくとも、声が出なくとも、耳は生きていることがある。そこまで考えたわけではなかったが、咄嗟に叫んだのは間違いではなかったらしい。
 白刃から炎を吹き上げかねなかった気配は、戸惑いながらも緩緩と鞘に収められ、替わって瞼の下からまだ気遠い瞳が半分覗く。それが硝子を嵌め込んだように思え、背筋を走り抜けた悪寒を力尽くで押し込めた。壁に凭れた細首を捻り、揺れる眼差しが、それでも我が身を拘束するものを捉えようとして動く。
「―――」
 声にはならぬまま唇だけを震わせて、正気に返ったらしい刹那が途端に身動いだ。それを合図にロックオンは少年の背中、膝の下に両の腕を差し入れる。と、腕の中の躰が強張った。蚊の鳴くほどに小さな呻きは痛みが引き起こしたものだろう。見て取った患部はどうやら脚だ。
 状態が解らない以上、負荷を掛ける可能性は排除したほうがいい。
「吐くんじゃねえぞ」
 肩を貸すのもまどろっこしく、乱暴ともいえる仕種で担ぎ上げた。驚いたらしい気配があって、ロックオンは漸く一つ仕返しをした気分になった。善い気分とはかけ離れたそれを砂のように噛み締めた。
 その場にいた人間に騒ぎ立てないよう念を押す頭が働いたのは、ロックオンが怒りに駆られていた結果にほかならない。
 歩ける、下ろせと刹那が背を掴んで訴える様子だが、無視した。現状彼が暴れたところで振り切ることは出来ないだろう。それでも。
「黙ってろ」
 頼むから今は黙っていろ。でないとお前を殴りそうだ。

 挨拶もなしに駆け込んだロックオンに振り返った医療担当は憮然としたが、担ぎ上げられた刹那には流石に眼を瞠った。狭い診察台に下ろすように指示され、どうやら発熱と、患部の痛みか扱いそのものに途中から固まったような少年を坐らせる。ぐらりと上半身が揺れて思わず手を伸ばしたが、刹那は壁に躰を預けることで自分を保った。
「経緯は?」
「解らん、もうしゃがみ込んでた」
「ほうほう、じゃあ君はお払い箱だねえ」
 眼を剥いたロックオンに、医者は安閑とした様子でしかし反論を許さぬ調子で医療室を追い出しに掛かる。ロックオンは少年と同室ではあるが彼の保護者ではなく、よって最低限のプライヴェートは守られて然るべきだとのことだった。
「今は控えなさい。監督者として必要なことは知らせてあげよう」
 要するに顔でも洗って出直して来い、と。
 通路に、まるで悪さをした餓鬼のように放り出された格好で、ロックオンは持って行き場をなくした衝動をいいだけ悪態に変換した。そうして憤然と廊下を歩き出しながら、医者の意図したところに漸うのこと思い至った。だからといって納得できるかといえば否だったが、自分がどんな顔をしているのかくらいは、鏡を見ずとも凡そ想像がつくというものだ。きっと酷い顔をしているのだろう。すれ違った相手が次次ぎょっとする程度には、今のロックオンは物騒なのだ。
 騒ぎ立てるなといっておいて自分がこのざまではどうしようもない。すごすごと部屋に帰るしか能が無くても当然だ。頭を冷やしにシャワー・ルームに飛び込むと、正しく視線で人を射殺せそうな男がいた。
「酷えな、何だよコレ……」
 もしも自分がこんな視線を向けられたら、撃たれる前に我先と引き鉄を引くだろう。冷水の力を借りずとも、いっぺんで脳髄が冷えた。
 太平楽な様子に見えて、医者というものはだから侮れない。あいつらの胆力ときたらまったく特別製だ。特に、切ったり貼ったり縫ったりする奴らは多少の出血や怪我では動じない上に、一度決めると脅しても賺しても山のように動かないから厭になる。
 お陰で、少しは落ち着いた。
 落ち着く努力をする時間を、与えられたのだ。
 冷沸騰していた血が平時に近付くにつれて掌に温度が戻る。相部屋のベッドに腰を下ろすと、サイドボードの上の飴玉が一つばかり減っていた。
 あのまま刹那の側にいれば、ロックオンは大人気ないと知りながらきっと彼を手酷く罵っただろう。
 ―――様子が可笑しいことには気付いていたのに。
 具合が悪いならそういえばいい。
 戦場ではあるまいし、ぎりぎりまで我慢したところで一体なんになる。痛いなら痛いと声に出して訴えればいいのだ。体調管理が兵士の義務なら、それを自覚して悪化させない手段を講じることもまた義務のうちだろう。
 そういうところが子どもだというのだ。
 正論だからといって、考えなしに吐き出せばいいというものではない。ロックオンは刹那の思考をトレースできない。
「くそ、俺は小せえな」
 壁ではなく枕を殴るくらいには理性的な自分が、それはそれで忌忌しかった。


2008/02/07 LIZHI
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