千切れ飛んだ知り合いの誰かの腕の、折れたというより割れた骨の断面はささくれ立って所所が茶色く変色しかかっていたが、それが時間経過のためなのか、はたまた砂埃と血泥に侵されたためなのかは皆目区別も見当もつかなかった。ただそれが二度と動かないことと、焼け落ちた繊維、爛れたような古い肉の発する今思えば蛋白質が分解される時の深い臭気の残り香ともいえる何かが、自分がまだ生きて活動していることを否応なしに突きつけてくるように思えて息を吐いた。
俺は生きている。
【 杉の枝に心臓を掛け 】
エネルギィの摂取は活動のための最低限度の必須事項だ。
兵士にとっては義務ですらある。貧しく飢えたコミュニティが外敵に曝された時、なけなしの糧食を集めるのは幼児ではなく戦闘員だ。力ない一人より十人を護れる兵士を養うのが集団としての選択である。我が子の溺れた獅子は子のうちでより強く大きい個体を選んで生かす。本能が己が血を繋ぐ確率の高い手段を選ばせるのだ。
善悪も是非もなければ、強弱ですらない。しかし、それ故に兵士は岩よりも重い責務を負った存在となる。彼の命は、既に彼のものではないからである。
それを蔑ろにする態度を取ったせいだろう、同室であるロックオン・ストラトスの凍てつくような青い眼がその色に相応しい剣呑さでもって温度を下げた。
この男の怒りは、熱よりも冷気、いっそ凍気に還元される類であるらしい。
さらさらと流れるようでいて、得体の知れない大きなものを身内に囲っている。コンクリートで固めた人口湖に揺らめく水塊の、留められた力に似たものを、膂力に満ちたその身に湛えているのだろうと思われた。
水の色は刹那にとって好ましいものだ。
少なくとも、暴虐な太陽と茜に染まる光景しか思い出せない空よりは余程。それがあれば人は生きてゆかれる。カロリィやミネラルは必要不可欠だが、仮令土を喰って生き延びようと水がなければ躰は容易く乾涸びる。
しかし年上の青年の持つ色を空ではなく、水や氷のようだと判じた理由については定かでなかった。
「食べないとはいっていない。後で行く」
「はいはい、好きにしろ」
一人になった部屋でベッドに伏せた。
充分すぎる快適さというものに未だ慣れない。マットは訓練に明け暮れた泥のような躰をきっちり受け止める。それがいっそう我が身の重さを認識させる。
否、そうではないか。泥の中に足が埋まったように重く、容易に前へ進まないというだけだ。片足を引き抜いた先からもう片方がずぶずぶと埋まるのだ。事実はそうですらなく、誰かの腕が刹那の足を捕まえて放さぬだけかも知れない。
そういうこともあるだろう。
寝具の地平線上に、出て行く前にロックオンが置いていった飴玉の包みが眼に入った。あの男は時時能く解らないものまで常備している。
考える前に手が伸びていた。
脳髄が利用できるのはブドウ糖だけだから、きっとその所為なのだろうと思う。刹那は、かさかさと頼りない手ごたえの包み紙から取り出した中身、小さな磨り硝子様の表面をつと舌先で舐め取った。意識もせずに瞼を下ろす。ざらついた感触と、熱の塊である身上を裏切ってひんやりとした甘さ。半透明の砂糖菓子は、からころと心地よい音をさせながら口の中で冷たく溶けた。辛いほどに清しい緑葉の匂いだ。
訂正しよう、劣悪な環境下に泥水と飴玉一つあれば人はもう暫く生きてゆかれる。
食堂に顔を出すとほとんど人がいなかった。
「十分遅かったら、次は六時間後だぞ」
「すまない」
「真に受けるなって」
扱い辛い奴だなあ、という文句―――恐らく―――を背中に聞きながらプレートを置いた。なかなか進まぬそれを自分でも訝しく思いながら、先程の砂糖菓子のほうが熱効率はよかったろうと詮無い思考を巡らせる。しかしその場合、栄養バランスは壊滅的に考慮されない。ゴムを食べるような食事を終えて、部屋に戻る途中、みっともなくも通路に片腕を突くことになった。
矢張り、泥に足を取られたかと思う。
力を入れようにもそこに力が伝わらないのだから処置なしだ。自分の躰だというのにこれほど思い通りにならないのはどうしてだろう。あるいは、真実己に所属するといい切れるものなど存在しないのかも知れない。
次の一歩を踏み出せぬまま、刹那は壁に半身を寄り掛かる。こうして暫く休めば不完全な連結も回復すると経験で知っていた。しかし、何故だかいつもよりそれは遠くにあるように思われた。照門を覗き込むように視界がぼんやりと狭い。
―――部屋に、戻らなければ。
このまま泥濘に引きずり込まれるのではないか。そんな想像がどこか真実味を帯びた。
―――冗談ではない。
冗談ではないが、刹那が見捨てて来たものどもも、伊達や酔狂で人形のように腕やら脚やら胴やら頭やらを吹き飛ばされたわけではないだろう。
真剣に、ただ滑稽なまでに愚直に、積み重ねられた時間の上に見出した守るべきものをそれぞれに守ろうとしただけだ。けれども。
砕けた頭蓋を鳥が突付こうと乾燥した死が風に吹き飛ばされようと、死人の思いが空に還るとは思えなかった。斃れたそれらの顔は鏡の中に発見される。既に刹那の生すら己に帰属してはいなかった。
アンフの砲撃が空けた穴の底で、無数の<刹那>がこちらを見ていた。
2008/02/07 LIZHI
No reproduction or republication without written permission.
CLOSE