ゆっくりと、掴んだ腕を下ろさせた。
 暗闇に慣れた眼は、刹那が一瞬見せた恐慌も過たず捉えたけれど、波が過ぎ去った後は何もかも幻だったかのように静かだ。
 可笑しなものだと思う。施設には夜を昼にして動くものもいるというのに。
「眠りが浅いってのは、戦闘員にはよくあることだ。深く眠っているように見えて、何かあれば誰より早く飛び起きるってのもいる」
 そして、目覚めと同時に武器を取る。それは訓練の成果でもあるが、多くは実戦を経験した者の反応だ。そうでなければ生きられなかった者の得た術だ。彼の眼が何を思ったか僅かに眇められた。細めた片眼は敵に狙いをつけるようでもあった。つまりは業ということでもある。
 けれど―――最初から眠れないのは論外だ。
 刹那が夜中に部屋を抜け出すことが多いのは知っていた。刹那と違って眠っていても、意識は容易く水面に浮かぶ。ロックオンもまた命の遣り取りをしたことのある人間だから。否、人殺しだからだ。
 短期間なら無理もきく。躰が慣れることもある。薬で騙すことは可能だ。態態メディカルデータに眼を通した理由の半分がそれだった。幸いというべきか刹那に依存症的兆候はない。少なくとも現在は、だ。
 しかし未だ成長の途上である少年の躰に負荷をかけ続けることが、どんな意味でも善い結果を齎すとは思えない。
 ロックオンは誰かと話すためにこれ程言葉を選んだ経験はなかった。結局、選ばないのと同じ結果になった。大体どうやって気遣えというのだ、女でもない、子どもでもない、この不安定で強情な生き物を前にして。
 いっそ真面な軍人同士で、彼等が正しく上官と部下ならば、この口を楽に開かせることが出来たのか。そんな馬鹿な仮定はないというのに。
 何より、こんな面倒を自ら拾おうとしている、自分が一番信じ難い。
「他人の気配があると眠れないか。それとも、俺が信用ならないか」
「そんなことは、ない。あんたの勘違いだ」
「訓練成績が下がってるのも、勘違いで済ますのか?」
 刹那の肩が小さく動いた。冬芽色の眼がただの硝子玉のように温度を失くす。
「そりゃ大した変化じゃないだろうさ。けど、データだけだって気付く奴は気付くぞ。否、もう気付いてる」
「違う……そんなことは」
「刹那、聞け」
「煩いッ、黙」
 ぱん、と乾いた音が部屋に響いた。ロックオンははっとして、自分の大きな手と打たれたまま顔を俯かせた刹那を見た。幾ら彼の態度が頑なであったにせよ、これは、あんまりな失敗ではないか。ざらついた声でわるい、と告げる。
「別に」
 それより、放せ。そう刹那がいったので、気まずい思いをしていたロックオンは、自分が彼の細腕を捕まえたままであることを思い出した。何より、彼がまだ話してくれることすら意外で、反応が遅れた。
「流石に、あんたの馬鹿力で掴まれては」
 骨が軋む。
「すっ、すまん忘れてた」
「わ、」
 気の抜けたように発音したきり、刹那は疲れたようにくったりとベッドに伏すほどに俯いた。しばらく彼はそうしていて、勢い謝ってしまったロックオンは話の接ぎ穂を見失う。二人とも、ベッドの上で暫くだんまりを通した。
 うつ伏せた刹那の折れそうな細首が夜目にやけに明るく映る。小さな拳が寝具を握って筋が浮いた。
「あんたの、せいじゃない」
 くぐもった声が、いう。
「刹那」
「前からあった。今度も、すぐに慣れる、だから」
「刹那」
「……追い出すのとか、止めて欲しい」
 刹那、馬鹿だろうお前。
 俺がいつ、部屋換えの提案なんかしたよ。誰かに報告するだとか、そんな話をお前にしたか? そういうことを、いいたいんじゃないんだよ。ロックオンは言葉にならないもどかしさに息が詰まりそうだ。
 まるで石でも飲み込んだみたいに。
 テストだと思ってる。と彼はいった。
「彼等の、スメラギ・李・ノリエガの。それから、ヴェーダ」
 その先に見えるものは、ひとつだ。
 多分最初から、彼はそこしか見ていない。
「俺はもうミスをしたから、多分、次は無いと思う。やっとここまで来て、なのに、あんたとちゃんとやれないんじゃ、きっと本当に」
 本当に。そこから先を拒否するように刹那は口を噤んだ。言葉にしたら、それだけで死んでしまうとでも思っているようだった。
「……ばぁか、お前は、ちゃんとしてるよ」
 刹那がまるきり信じていない風だったので、ロックオンは飲み込んだ石の重さは胃の腑の底に押し込めて、くちびるの端を持ち上げた。それは酷く労力のいる仕事であるように思われた。
「なあ、つうことはお前が昼間ふらふらどっか行ってたのって、眠る場所探してたのか?」
 思いついたことを殊更軽く訊いてみる。
 逡巡の挙句、こくりと小さな頭が迷いながらでも肯定の意思を示して動いた。成る程な、とロックオンは肩を竦めた。半野良の行き先は丸くなれる揺り篭だったのだ。どうやら本人、眠りたいという意識は希薄なまま、人のいない場所を探して彷徨いていたようだが。
「それで正解だな。トレーニングや演習を寝ぼけ頭でやってたんじゃあ、危なくって仕方ねえ。最低限、自由時間は睡眠に当てていいと思うぜ」
 長時間は無理として、短時間の睡眠でも人間には効果的だからな。サバイバル演習にでもなるんじゃねえか? 一石二鳥でさ。
 刹那が珍しくきょとんとしているのを置いて、ロックオンは勝手に話を進めた。今この口を止められたら、次に何をいい出すか解らない。
「夜だと眠れないのか。人気があるのが苦手?」
「……多分」
「そか。もしかして俺らのシフトずらしたほうがいいのか。ま、ちょっと難しいだろうが」
「そんなことは、するな」
「するなじゃねえよ馬鹿、出来ねえつってんの。お前この件に関しては発言権は無いと思え。そんで、やっぱメディカル・チェックアップは受けろ」
「……」
「黙るなよ。そうやって睡眠不足を補ってけば、バイタルサインの不調もある程度抑えられんだろ。つうか抑えろ。いいか俺のことは考えるな、これまでお前がそうして来てたってんなら、その通りにやればいい。ただ、眠れなくてもいいから眼を閉じて躰は休めろ。―――もしもお前が、どうしてもエクシアのマイスターになりたいってんならな」
 名前一つ。たったそれだけで、刹那の纏う空気が変わる。
「だったらそうしろ。ストレス反応は、俺に気付かれるとやばいと思ってた所為もあるんだろ」
 そうでなければ、ここに来て調子を崩す謂れが無い。
 じろりと態とらしく視線を尖らせれば、彼はしぶしぶ口を開いた。
「あんたはデュナメスの、パイロット、だ」
 ―――ああ、解ってたよ。
 お前にとっての俺が、何を意味するのかくらい。ちゃんと判ってた。
「はい、そういうわけでこっちも消えた。どうだ、何とかなりそうな気がしてこないか、刹那君?」
「……やめろ」
「んん?」
「君はやめろ。ロックオン」

 それがどんなに嬉しかったかなんて、お前は知らなくていいことだ。


2008/01/28 LIZHI
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