ふらふらとその場から遠ざかる頭を追い掛けた。
事故現場からは直線距離で幾らも離れていない。
海岸線に沿って緩やかに湾曲した広い公園の、八つある噴水でもなければトラム―――廃線のせいで思いがけず終点になった―――でも臨海実験所でもない、栄誉在る無名の片隅。生きながら死んだような男は今もじっと植栽越しに、壊れた車両を凝視している。正しくはその向こうに車両があるだろう、人垣の背中を見詰めている。ベンチに坐るでなく凭れ掛かった男に、だが通りかかる誰も振り返らない気付かない。それが余計に男を幽鬼じみて見せている。
どうやら彼は今、綱吉にだけ視得る存在であるらしい。
と、リードの付いた散歩中の犬が男に向かって数回吼えた。人間のパートナーとやらは他の生物が避けて通るような場面でもかまわず飛び込みたがる。それでも飼い主のほうは愛犬の気紛れに困ったように微笑むだけ。
色褪せた元は婦人用のストールで頭と肩を覆っている。喜捨の為の紙コップには釦すら入っていない。食い扶持のそれを掲げることもなく、男はただ事故のあった方角へと虚ろな視線を馳せている。
魂を抜かれたようだ、と綱吉は思った。
透けてもいないし影もある。彼はこの世の存在だ。視得るというより正しくは判る。能力のような体質のような自称後見人にいわせれば病気、それのせいだ。
男の周囲に張り巡らされたものの印象を、喩えていうならば<輪>だった。
不可視のリングは彼を現実から綺麗に切り離している。人垣を抜ける際も綱吉以外の誰一人彼に意識を向けなかった。何かがぶつかったかと首を傾げ、或は無意識のうちに場所を空ける。
こちらが数歩の距離まで近付いても振り返るでなく、視線は動かない。男のこころは彼方に囚われたままに見える。
銜えっぱなしの紙巻煙草を新しいものに替えた。
独特の、甘苦い香りのする煙を撚り合わすように、細く長く吐き出す。イメージのなかでリングに楕円の縄をかけてやる。煙はのたうつ白蛇のように二人分の空間を取り巻いて、やがてすうっと空気に溶ける。
そうして漸く、男は傍らに立つ人間を認識した。綱吉の持つ数少ない特技だ。簡単にいうと<境界>に<境界>で干渉した結果なのだが、まあそれはいい。
空白ののち、信じられぬようにかっと眼を見開いた男は状況を理解出来ぬらしく、ただ怯えたように膝行り遠ざかろうとした。それに合わせて不可視のリングも移動する。綱吉は追い掛けるのは止めて側のベンチに腰を下ろした。警戒が僅かだが一旦緩んだ。
銀色の薄いケースから取り出したもう一本に、ゆったりと一口吸い付け横手に差し出す。 「他に何もありませんけど、如何です煙草」
甚だしょぼくれているが、他に彼の興味を引けそうな持ち合わせはない。
「まあ、ちょっと変わった味ですけど、別に害はないですよ。それとも自分で火を点けますか?」
失敗したかなと思うほどの間を置いて、それでいい、と男がいった。
「あんた、見えるのか」
薄っぺらく乾燥した唇が戦慄いた。腫れぼったい双眸には憔悴の色がべったりと塗りたくられている。蒼白い顔の真ん中で長く大きな鼻だけが赤い。頷いただけでは届かないので、綱吉は声に出して彼の言葉を肯定した。
蓬髪が揺れる。膝を抱えたままの全身が、小刻みに震えている。
まばらな通行人は誰も二人に注目しない。事件のほうに意識が向いているか、無関心かに拘らず。それでいて、綺麗に彼等を避けて行く。それはまったく自然に行われるので当人たちが気づくことは、恐らく永遠にないだろう。
「自分が、いつからそうなったのか解りますか」
男は黙ったままで微かに首肯した。さてと綱吉は思案に唇を舐めた。恐怖に怯えきった精神は脆く攻撃的で容易く内に篭ってしまう。そうなったら、話を聞きだすことも困難になるだろう。けれども放って置くわけにはいかない。
恐らく彼は、刑事たちが探そうとしている目撃者だ。
そして、彼等には絶対に見付けられない。
「何があったんですか? それとも、何かを見た?」
怯えた猫のように全身の震えが酷くなった。ゆっくりと近づいた綱吉はそっと男の背中に手を添える。強い震えが掌越しに伝わった。暴れられるかと思ったが、そうする気力も体力も既に使い果たしているようだ。息を吸って、吐いて。怖がらなくていい、自分は味方なのだと教え込む。吸って吐いて。ふたつの呼吸を同調させる。そうして意識を落ち着けるよう誘導する。吸って、ゆっくりと吐いて。甘苦い香りには鎮静効果もある。
彼が怯えて当然だ。綱吉は、お前を生きた幽鬼にした犯人は誰かと訊いているのだった。誰にも気付かれず、声すら届かず、路傍の石のように過ぎ行くものをただ見ることしか出来ない。そういう風にしたのは誰だ、と。
「何を見たか、聞いても?」
聞いてどうするのかと、返事があるだけ幸いだ。綱吉は自分の声が成る丈誠実に響くように努力をした。
「貴方を助けられるかも知れない。貴方は生きているんですよ」
「……」
男の視線が何かを確かめるように縋るように綱吉に注がれる。今この瞬間だけは詐欺師にだってなってやろう。 「大丈夫」
何の根拠もないような言葉に、けれど彼はゆるゆると泣きわらいで、歯抜けの目立つ口を開いた。
※
ロザートは塒にしているベンチの上で眼を醒ました。
交じり合った酒精が靄を掛けていた頭を、夢の中で行き成り殴られたようだった。酷く腹が立って起き上がったロザートは忽ちそれが事故だと気が付いた。風よけのボール紙から抜け出すと、道路のほうへと不自由な足でもって急ぐ。通り名通りの、赤ぶどうで造ったヴィーノに似てばら色をした大きな鼻が、金になりそうな匂いを嗅ぎ当てたのだ。
単純で代金がチップ程度の強請は滅多なことでばれないし、ばれてもそれほど警察もうるさくはない。なるたけ哀れっぽくやることだ。優越感に浸った人間ほど人間性とは無関係に寛容になることをロザートは経験から学んでいた。
通りの角から大破した事故車両が見えた。
運転手は生きてはいないか、即死でなくとも虫の息だろうと思われた。だがそれよりもロザートを驚かせたのは、未明の闇のなか車線を遮るようにして立つ人影だ。果たしてあの車は、その人物を避けようとして事故を起こしたのだろうか。それにしては慌てたところも、怯えたところもなさそうだ。ただ当り前のようにそこにある影は闇よりも暗く不吉に映った。
芝居じみたマントを被った細身の影は、大破した車に向かってまっすぐに歩いて行く。そして、人影は一人だけではなかった。ぱらぱらと現れた男たちが最初の影を追い抜くように車に駆け寄って、砕けたフロントガラスを更に破壊し、辛うじて開いた助手席のドアから何かを漁る。誰一人運転手の安否を問うものはない。そんなものには興味もないようだ。遠い街灯、薄い影が発光するような空の加減で、男たちの顔が陰影に浮かびまた沈む。
そこまでを視界に納めて、ロザートは係ってはならぬものにもう少しで係ってしまうところだったと早鐘の心臓を宥めた。数人の人影から立ち上るのは紛れもない暴力に慣れたものの匂いだ。気付かれる前に姿を隠さねばならぬ。けれども下手に動いて音を立ててしまうことを恐れて動けない。早く立ち去ってくれと半ば祈るように願った。
「おや、こんなところに鼠だね」
ぎょっとした。しゃがみ込んだロザートの頭上から降ってきた声は、少年とも少女ともつかない。だが子どもだ。一体何時の間に近付いたのか、それより、どうしてこちらの居場所が判ったのか。混乱して腰が抜けたままじりじりと後へ退る。フードを被ったままの隠れた視線が恐ろしかった。温度を感じられない夜のようなそれが怖いのだ。まるで虫螻か何かになったような。否、相手にとってロザートは確かに虫螻同然だったのだろう。
「本当なら見物料でもふんだくるところだけど―――」
まあいいやそのかわり、といいながら懐から何かを取り出した。銃でもナイフでもなく夜闇に鈍くひかる小さな。
―――そこから先は覚えていない。
※
「気が付いたら道の真ん中でひっくり返ってた。自分が死んだんじゃないかと何度も思った。見ない振りならいつものことだ、けど、怒鳴られも蹴りもされないのが怖いと思ったの初めてだよ。こうるさい警官だって、ぼうっと突っ立ってるオレがまるで判らないんだからな。なああんた、あんたはオレが見えているというが、オレは本当にまだ生きてるのか」
―――本当の本当は、もう死んでいるんじゃないのか。
そこまでを一気に喋って、ロザートは糸が切れたように項垂れ黙した。
彼の奇妙な体験談は綱吉の興味を引くに十分だった。少なくとも、秘書の事故が人為的に引き起こされた可能性があること。犯人が個人ではなく複数で動くものであること。ロザートは彼等の素性については何も知らぬか、知ってはいても話せる状態にはないようだ。そして、奇妙な子ども。綱吉はただの事故死とは思えぬ恐怖に満ちた死に顔と、魂を抜かれたような眼前の男とを比較した。集団で動くそのうちの少なくとも一人に、特異な術を使う人間がいるのは確かだろう。
タイミングを考えれば、その男たちの狙いが自分と同じものであった可能性が高いということが綱吉の機嫌を一気に下降させた。
「どうしますか」
ぐらりとロザートの頭が動いた。細めた眸で綱吉を斜めに見上げる。
「誰にも見られず、誰にも気付かれず、そういう生を望む者も此の世にはいるから」
「オレは、いやだ、こんなのは、ないよ」
こんなのはない。その通りだ。
綱吉は、いつの間にか滂沱の涙をこぼしているロザートの、これまで決して開こうとはしなかった固く結ばれたままの左手を取った。まるで本人の意識しないところで操られているような拳。ロザートは触れられてはじめてそれに気が付いたように、呆然と己が躰の一部を見下ろした。いまや為すがままの、強張った指を一本一本丁寧に開かせてゆく。やがて五指が開いた掌中央の僅かなくぼみ。
酷く驚いた男の視線の先に、細い金の指輪が顔を出した。
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written by LIZHI@