青い回転灯を載せた車が辺りを斑に照らして停まったので、目撃者のお喋りを厭というほど聞かされていた白バイ警官のゾルツィは、苦行からの解放につい、あからさまな息を吐いた。
 事故現場へ一番乗りを果たしてしまった格好だが、別段仕事熱心な性格ではない。大事な家族の平穏無事が一番の問題であるゾルツィのような男にとって、たまたま近くを走らせていた結果としての現状には少々嫌気が差している。
 こうしている今も、直ぐ側には死体があるのだ。
 幸いというべきか、女はゾルツィの溜め息に近い吐息などには端から注意を払っていないらしく、情熱的に身振り手振り交えて同じ話を繰り返している。そのパワーには心から敬意を表したい。がしかしわけの解らない目撃証言と、話の通じない目撃者を相手にするのは相当の忍耐を必要とした。こんな時に限って顔見知りが自分の仕事のうちに入り込んでくるのも謎だ。しかも、眼敏くゾルツィを見つけた女が一方的にではなく、ゾルツィの方にもまた、彼女に見覚えがあったのだから如何ともし難い。といってもスペルメルカートの客同士だ。
 そんな蜘蛛の網さえも、いざという時は頼りに思えるものらしい。
 彼女はこちらの顔を確認するなり突進して来ると、絶対的な味方を得たとばかりに聞いてもいないものを畳み掛けるように喋りだした。ぎょっとしたゾルツィが女の顔を思い出したのはその後だ。彼女曰くの不思議体験は、他の通行人から理解を得られなかったようである。そういう立場に立たされた人間は経験的に、自分の見間違いと判ずるか、より激烈な反応を示すかのどちらかだ。
 そして彼女は後者だった。まるでヒステリックな殉教者にも見える。
「だから急によ、急に眼の前に出て来たの。如何して誰も見てないのかなんて知ったこっちゃありませんよ、そうでしょお巡りさん、こっちは危なく轢かれるところだったんですからね。ええ見たらそこのところにぶつかって。ぶつかったところを見た訳じゃないのかって? だからそういってるじゃないのさっきから」
 確認しておくが彼女は当事者ではなく、通りすがりの目撃者だ。
 話しているうちに興奮してきたのだろう、最初は少々奇妙な目撃談だったのだが、今ではまるで己が被害者の如き口吻だ。本人はその矛盾に気づいていないところが疲労感を倍増させる。
 朝のこの時間、辺りは必要最低限の規制だけが敷かれている。ゾルツィは漸う現れた刑事たちに彼女を紹介の名目で押し付けて、さっさと本来の仕事、通過する車両を誘導に向かった。自分は変化の少ない安定した職業を選んだのであって、TVの中の刑事に憬れたのは子どもの頃だけだ。
 同僚の一人が揶揄うように労いの声を掛けてくる。それに応えようとして、ふとゾルツィは今来た方向を振り返った。不運な事故現場には不釣合いな甘苦い香りを嗅いだ気がする。さっきの女の香水ではないだろう。首を傾げたが、もう一度声が掛かったのを潮に、些細な疑問はそれきり忘れ去られた。



「ああもう、酷ェなあ」
 フロントの波打って拉げた車体は棺桶としては最悪の部類だ。今時生死の判定もすっきりいかないご時勢とはいえ、眼を剥いて恐怖の叫びをあげたまま彫像にしたような被害者のことは誰一人、生きているとは思わなかったらしい。今は運び出されているが、救助要請が無用と判断されるほど彼ははっきりと死んでいたのだ。
 一帯には砕けたガラスとミラーが散乱して、場違いに煌びやかな光を弾いている。
 車は街中を猛スピードで走行し、突如現れた障害物を避けようとでもしたように一旦急ブレーキをかけハンドルを切り、なおかつ数十メートルに渡って不規則に蛇行を続け、最終的にT字路の釘の頭に殆ど正面から突っ込んだ。鋼が拉げるだけのスピードでだ。
 路上には、轢かれた犬も猫も鳥も人間もいなければその痕跡もない。運転手が袋や何かを見間違えたか、原因が逃げた可能性もある。
 そして急ブレーキの原因が不運な飛び出し事故でなければ、居眠りか飲酒か薬物摂取あたりを疑うところだ。その辺はこれからの検査待ちだそうである。青年刑事は鑑識の人間に恐らく彼なりの礼だと思われる奇声を残すと、到着するなり目撃者の女に文字通り捉まった同僚を、すいませんねえご協力ありがとうございまあすとにこやかな笑顔で掻っ攫った―――腰は低いが押しは強い。
「なんなんだよお前はよ」
 不機嫌そうに告げたのはごま塩髭の五十絡みの男である。他人に与える印象が随分と対照的な二人組だ。片割れは、これでも救助して差し上げた心算なんですけどねぇと肩を竦めた。その調子の善さで面倒ごとを押し付けたわけだから、押し付けられた方に手帳で尻っぺたを叩かれても致し方ないところだろう。大袈裟に痛がるだけでさしたるダメージがないあたり、彼等にとって珍しいやり取りではないとみえる。
「だいたいねえ、土竜じゃあるまいしこんな大きなモンがそんないきなり沸いて出るわけないでしょ、ないない」
 ないですよおと、どうやら道化た仕草が常態らしい青年は一応のところ声を潜めて、彼女の証言をてんから否定した。詳しく聞くでもなくじゃあ僕はあっちでなどと分業を申し出たのだから、大した面の皮ではある。男はふんと薄い眉の右だけ跳ね上げた。人好きがするとはいえぬ人相がいっそう悪くなった。
 女は確かに最前からそれを繰り返し訴えている。前触れも無く派手な事故車両が現れたのだ、と。
 到底信じられるものではないだろう。まともに考えればそれが普通だ。
 それでも年の功か職業意識の発露か、辛抱強く話を聞いていた刑事は証言を無視して善いものかどうか、思案の天秤にかけているようだった。
「じゃあなんだ、見間違いか錯覚か?」
「注意力散漫とか」
「にしたってなあ、こんな事故があったのに今まで誰も気づかなかったってのも」
 そりゃあ不自然だろうよというのに。調子の善い青年は待ってましたとばかりに声を上げた。
「いや気付きます、気付きますよ。オレは鑑識とかそういうの最低限しかわからんのですがね、学がなくって苦労しますが」
 曲がりなりにも刑事の言とは信じたくない科白な上に、青年に苦労の影は微塵もない。
「本題な」
「本題です。被害者あれ、見てきましたけどね。あれ如何見たって出来たてほかほかの御遺体じゃあないですよ。いいとこ死んだのは夜のうちでしょ。朝方かなあ?」
「お前の大雑把な推測はいらん。あちらさんは何て?」
「『正確ではないが推定でいいなら本日午前二時半から午前三時半の間』だそうで。死後硬直がですねどうたらと」
「だったらそれで善いよ、いらんものくっ付けてどうするよ」
「自主性を発揮してみようかと思いまして。いまどき物騒ですからねぇ、そんな時間にこのへんうろちょろしてる人間は少ないです」
 表通りにゃ日を跨いで球蹴りしてる若いのはいるけどな、と男は口を挟んだ。青年は茶茶入れに頷いて横へ置いた。めげない。
「海岸公園の広場に陣取ってるホームレスだってそんな時間はじっとしてます。人通りがないのに働いても実入りはないっすからね。でもほら、向こうッ側で工事予定地だかなんだか看板出てるでしょ」
 青年は港の西向こうを踵を上げて手庇で窺った。
「あん? ありゃ反対されてるんじゃなかったか」
「さあそこまでは。けどお陰で結構流れて来てるらしいですよ、局地的人口密度アップ。おふくろが絡まれたって怒ってましたからね」
 そこで青年は、何かにつけて刑事という公職にある息子に責任を負わせようという母親の愛について一席ぶった。それで? と同僚に促されてぱちくりと瞬きしたのは、自分で喋っていた内容の行方を忘れたせいだろう。
「―――ああそうそう、で、市の方も時々思い出したように追い回しますでしょ、まあいたちごっこで。つうても働いてるところはみせとかないと強硬派から突き上げを喰らいます。オレは給料減るのは厭です。海岸通りは少し行けばカモの多い観光広場ですし、応援要請もされるオレらは嫌われ者なわけで」
「わかったわかった、つまり目撃者の警官嫌いで通報されなかった、と」
 はいはいと、青年は大変調子の良い相槌を打った。男の視線が胡乱なものを見るように冷めた。
「あの時間まで、誰も? 車もか?」
「あう、そこを突かれると弱いです。でも実際のところ通報も苦情も警察には来てなかった訳でして。あの人が一番乗りするまでは」
 しかし邪魔ですねこれ―――と青年は事故車両と周囲を見渡しながらあっさり前言を翻した。が、翻した心算は本人にはなさそうだ。
「まぁ、どのみちこの近くの、公園も含めてだ、いるだろ占有者さんがたの顔役には話を通すとしてだな―――」
 オヤジさんお友達でしょお願いしますよ警察の希望の星、と青年が調子よく持ち上げれば、任せとけ今度お前もデビューさせてやると男は真面目くさって返した。外見よりは付き合いやすいタイプのようだ。
 何にせよと男は自分の髭面を思案げに撫でた。
「こんなもんがあったら普通に通るのだって邪魔だろうよ。この街の人間はそりゃ事故の通報はせんかも知れんが、邪魔なものがありゃあクレームは寄越すぞ」
「っすねえ」
 刑事たちは額をつき合わせて唸った。被害者からの説明を期待できない以上、いたかもしれない目撃者探しと、事故現場の分析結果を待つのがより現実的だろう。しかしそれで疑問が解消される確率といえば宝くじより低い。理解不能なことは無かったことにされるのが組織というものだ。悩むのは、この二人が誠実な証でもある。
「それでこれな、本当にその、市議先生のとこの車か」
「え? ええはい、照会を信じるならそうなります。盗難届けはまだ出てませんね、これから出るかもしれませんけど」
「盗難てお前、車泥棒って面でもねえぞ」
「面でするもんでもないでしょ」
「スーツで車盗むかよ。くたびれててもありゃ結構いいぞ。オレは知らないが裏みりゃどこのモンかくらいあの人らはすぐ判るよ、判んなくっても調べるだろ。や、調べるのはオレらか、どっちでもいいけどよ。吊るしだったら知らんが、仕立て屋なら小さくっても顧客名簿くらいあるだろうよ。さすがに息子って年じゃあないが」
 何しろ遺留品と呼べるものが極端に少ない。免許もカードも財布も持たずに深夜車を走らせる理由など漠として見当もつかない。
 部下かなあ―――と刑事は頭髪をがりがりと掻いて、なんだかなあとぼやいた。取り合えず電話して、誰でもいいから家のモン掴まえて、首実験させりゃすぐだろうなきっと、でもなあ。
 何ですよ一人で納得しないで下さいようと、青年が不満をもらす。どこをどうすりゃ納得してるように見えるんだよ節穴にも程があるぞこの野郎と、怒鳴られはしないが詰られて青年は亀のように首を縮めた。お前はいなかったから知らんだろうがという刑事は酷く疲れたように、街を見下ろす丘のほうへと視線を向けた。修道院と凝灰石の城塞が見える。斜面には下町とは趣を異にする建物が並ぶ、その昔は役人だの貴族だのが住んだ高級住宅街である。
「通報があったんだよ」
「はい?」
「山の手で銃声がしたってな、昨夜だよ。近所の閑なばあさんで」
「はあ」
「丁度人手もなくってなあ、夜中だし、オレは夜勤でよ。行ったんだよその、市議先生のお宅にさ。顔も見れなかったけどな」
 応対したのは内向きを任されている人間だったらしい。
「オヤジさん、また勝手に勤務時間交替して。道理で隈が何時もの倍」
「頼まれたんだよ、大目に見ろ。その代わりカミさんの誕生日オレは休みだ」
 けどなあ、そんなもの無かったってんだよこれが―――と男はやっぱり倦み疲れたように吐いた。
「銃声が?」
「何もかもだ。そんな音も聞いた覚えはないっていう。まあ隣近所ったって庭は馬鹿でかいし、何かの音を聞き間違えたのかも知れんし、話してみたところばあさん耳もあまりよくはない。でもな」
 一晩で事件が二件、同じ家に続けて起こるもんか?
 起こるとしたらそりゃあ同じ事件だろうよと男はぼんやり呟いた。「よっぽど偶然が重なったんでなけりゃあな。ま、戯言だ、お前は気にせんでいい」
 青年は困惑を下がり眉で表現した。ははあ刑事の勘って奴ですなと本気かどうかも疑わしい感想を宣う。
「でもそっちは勘違いで、こっちはまあ多少変なところはありますけど、ていうかそのせいで僕らが呼ばれたんでしょうけど、要するに変な事故でしょ。今のところ身元不明なのと、何にも残ってないから盗難の可能性があるつうだけで。事件て呼べるようなもんはないですよね。違うんですか」
 さあなあ―――とぼうっと遠くを見る眼でそれきり髭の男は口を噤んだ。それからゆっくりと動いた視線が途中綱吉の上をつうっと滑り、見ようによっては不自然に崩れ落ちたフロントガラスの上に落ちた。じゃり、と砂のようになったそれを靴底で擦った。もしかしたら男は違うものを見ているのかもしれない。綱吉は彼等の傍を離れて、検分されている最中の遺体に近づいた。
 ヴェスヴィオの灰の下から現れたような恐怖の色が凍り付いている。
 ごく最近見覚えのある顔だった。市議の秘書兼運転手。山の手がどんなに非協力的でも身元が割れるのは時間の問題だろう。
 遺体の左手薬指には長年の圧迫によるものらしい、僅かな変形が見られる。結婚指輪の痕だけが残されているのは酷く寒々しい光景だ。所持品は余りに少ない。むしろ彼は身一つだ。鑑識の人間がフラッシュを幾度も焚いた。
 風が動く。唐突に甘苦い香りを嗅いだ鑑識主任は、おいいま誰かここに居たかと同僚に尋ねた。綱吉はそれを背中越しに聞いて、非常線を軽やかに越えると群集の一部になった。

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written by LIZHI@ BRIDESHEAD /  photo by  Infinite Glider

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