機嫌の悪いサルトリア・T

「……本当によろしいんですか、ボス」
 声を潜めて伺うエンツォに、綱吉は「いいから、いいから」と実に軽やかに片手をあげた。
 楽天的なまでに大丈夫だと断じる上司に反論のしようがなくなって、エンツォ青年は仕方がないなと腹を括った。どうせふらりと町に出たこのお人を止められなかった時点で叱責は免れない。ホテルを出る彼に追いついただけ運がいいとしておこう。
 尤も、綱吉を止められる人間といえばここにはいないかの『死神』くらいしか思いつかないが。
 エンツォは開き直りのよい男である。
 何しろ綱吉が彼を覚えたそもそもが、同盟ファミリーのボスのペットと同じ名前だという理由だ。この国のどこにでもある名だからそんなこともあるだろうと、あっさり受け入れたエンツォを綱吉が面白がった。散歩に着いて来るのがこの青年ならば三回に一回は見逃される程度に。右腕の獄寺隼人に大層複雑な表情で見送られるのも慣れたものだ。
「いい家だ」
 本のなかのアリーチェが、時計ウサギを追いかけた小さな穴のような建物の隙間を抜けると古いアパートメントがあった。看板などはどこにも見当たらない。
 綱吉のいう通り、時間に置いてけぼりにされたような建物はよくよく手入れされているのだろう。揺れる緑が小さな花をつけて玄関先で出迎えている。しかし、とエンツォはぐるりを見上げた。ここに辿り着くのはよほどの散歩の達人か、主人の腕を知っている顧客だけに違いない。
「ふん、ボロ屋だがね」
 さあ入れと愛想も何も無い様子で先に立つ男を楽しそうに追っていく綱吉に、エンツォは本日何度目かの溜め息を飲み込んだ。

 時間は少々遡る。
「ボ……ツナヨシ様!」
 エンツォの悲鳴じみた声が飛ぶ前に、綱吉は男の足を引っ掛けていた。
 何しやがるといい切らぬうちに黙らせた迷惑者をバールから摘み出す。律儀に口上を聞いてやるような義理はどこにも無いのだ。せっかく気分を変えようというのに、カフェの不味くなるような不愉快の原因は排除するに限る。
 翻って床に尻餅をつく老紳士に差し出した手はさらりと流されたが。
 裾を払って立ち上がる、予想より矍鑠として背筋の伸びた様子に綱吉は好感を抱いた。
「おいおい、大丈夫かいアメデオ」
 どうみても体格に劣る青年の為した行動に呆けていた店主が、はたと我に返って声を掛ける。
「たいしたこたあない」
 ああアンタ助かったよありがとうと。カウンターから身を乗り出した店主に綱吉は首を振った。よそ者が余計なことしたと思う。土地には土地の処し方があるから、そこに踏み込むようなイレギュラーは本来歓迎されないものだ。
 だが。綱吉には気になることがあった。エンツォは心得ていて電話で彼の上司と連絡を取っている。
「いや、不良崩れでさァ。いい薬だよ」
 ぶんぶんと手を振る身振りの大きい店主に、綱吉はそういって貰えると助かると小さく笑った。赤ら顔の頬が更に赤くなったことに気付いたのはエンツォだが。
「ここには観光かい?ビジネス?」
 おごりだというエスプレッソを有難く頂いての四方山話の最中だ。代金を置いたアメデオ老が今気付いたように綱吉を見上げた。
 何かと思って首を傾げたが、とにかく見られているとしかいいようがない。エンツォが僅かに気配を尖らせる。
 気付いていないのかそれさえどうでもいいものか。目立たず構える連れに片目を瞑ってみせて、とりあえず必要ならばと綱吉はモデルよろしく向き直った。
 値踏みする老人と、軽く両手を広げてにこにこ微笑んでいる青年。
 店主は肩を竦め、エンツォは対処に困って間抜け面を晒していた。やがて。
「着いて来な」
 そういってシニョール・アメデオは店を出たのだ。

『Alice nel paese delle meraviglie』なんつって。イタリア語読みでアリーチェ。
綱吉アリスなら、山本マッドハッター、獄寺トランプ兵(おい) 雲雀は水煙草持ってきのこの上に座ってる。

2005/10/25 LIZHI
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