かつん、とブーツの音が格納庫の壁に寄りかかったロックオンの耳を打った。
「古い歌」
「知ってるお前も大概だぜぇ」
 しかもこんなワンフレーズ。あとはもううろ覚えだ。
 聞かれたことが微妙に気恥ずかしいので、ロックオンはアレルヤのほうは見ないまま、白け切った風体で返した。どうせ彼の視線もまた、隣り合った自分でなしに彼等の遥か頭上へと向けられている。整備班も休憩を取るような時間、降りても来ない塔の上のお猫様だ。
 視線の合わぬまま、いい年の男二人、意味などあってもなくても構わぬような言葉の遣り取りを続けている。
「僕のは学習、比較文化史的な見地から」
「音源もろくにないつうのに。何の役に立つんだよ」
「さあ、どこかの都市に潜伏中、酒場で昔好みのおじさん辺りと酒の肴にしてみるとか」
「うげ」
 そりゃお前さんの貞操が心配だ、とは流石にいい控えた。
 遠まわしなようで直接的で、つまりは女を口説いている歌である。
「お国かな? ああ、いっときますが別に詮索じゃありませんよ」
 などという、アレルヤ・ハプティズムという青年についての認識を変える切欠になったのも、かの少年絡みであったことを思い出す。
「残念、昔の女王様の国のシンガーさ」
 といっても生まれはニューヨーク、地球を一周するような混血の申し子だ。そして、ショービズの海を渡りきれなかった不遇で傲慢な、一瞬の天才でもある。断片的にそう伝えられるだけで、彼が果たしてどんな人間だったかなど既に誰にも判りはしないのだ。残っているのは音楽だけ。
 隣を見れば、アレルヤは相変わらずやんわりと眉を寄せた困り顔だ。
「天才、の定義も善く解らないなあ。あと、歌詞はほとんど意味がわからない」
「んなもん、俺もわかんねえよ」
 そうして馬鹿笑い。少年が気付いてくれれば手間が省ける。とはいえどうやら望み薄だ。流石に分が悪いぜとロックオンは仕方なしに思う。
 何にでもなれたはずの、何にもなれなかったのかもしれない男の紡いだ、言葉遊びのような歌が相変わらず頭の中で一箇所だけを繰り返している。
「ああ、降りてきませんね、刹那は」
 気持は解らないでもないですけど。
 実働試験に呼ばれたマイスター候補は、三人。もう一人はどこかで既に決定しているらしい。つくづく油断のならない組織ではある。中にいてすら得体が知れない。
「気持、ね」
「貴方はどうなんですか? 目指しておいてなんですが、僕のは正直いって、嬉しいというのとは違うから」
「さてねえ」
 世界の敵の矢面に立とうというのに、嬉しいもないだろうさと正直に告げる。
「けど、あいつも別に、玩具を貰えて嬉しいってんじゃないだろうぜ」
 刹那が、あの少年が初めてエクシアに対面した日のことを、ロックオンはきっと忘れられない。その威容を見て取った彼が、大きく眼を見開いた瞬間から。まるで雷に打たれたか、啓示でも得たような危うさを見せたから。
 そっと近付いて行くゆっくりとした足取り。
 触れてはいけないもののように、そのフレームに一瞬弾かれたように見えた指の動き。
 両手を結ぶように力を込めたあと、大事に触れた両の手のひら。
 硬い外壁部にそっと額突くような仕種。そうして暫く動かなかった殉教者のような彼そのものを。
 ―――俺の、エクシア。
 その瞬間の歓喜と絶望に似たかなしみを、忘れないと思った。
 きっとコクピットの中じゃ気付いてやれない。
 堅い殻に覆われた刹那。暗い井戸の底から天を見上げるような子ども。殉教者に似た彼はその瞬間、まるで涙を流したようにロックオンには思えたけれど、しばらくして顔を上げた少年の頬には雫のひとつも見えず、その痕さえ見つけることは叶わなかった。
 けれども。
 身に纏った殻の内側に、己へ向けた鋭い棘を生やした少年は、血でも涙でもある願いの雫を少しずつ、少しずつ、今も流し続けているような気がしている。
 まるで大昔の拷問具。いつかその滴り落ちた雫が彼の小さな井戸を満たして、願いの底からお前が溺れて出て来られなくなったなら。
 叩き壊してでも、連れ出してやるなんてことを考えてる奴がここにいる。
「そうされたくなかったら、早く出て来いよ、刹那」
「そうそう、ひねくれ者のロックオンがこうして態態貴方をお迎えに来て、番犬宜しく待ってるんだから」
「……おい」
「だって本当のことじゃないですか」
 そういえばアレルヤには、ロックオンが刹那と交わした約定が知られているのだった。どうしたわけか刹那経由で。自分に対してあれほど頑なだった態度は一体なんだというのだろう。以前、そのようなことをこぼした時、生温かい眼差しを向けられたのでもう口にしないが。
「そういえば彼、本当に罰だと思ってますけどいいんですか?」
「……そうでもいわなきゃ聞きゃしねんだあいつは」
「まったく、微笑ましいっていうか」
「どこが?!」
 結局、少年は荷物を移動しただけでロックオンの部屋に戻ってきた。正式な措置として。
 刹那をあのまま放り出すことのほうが、自分にはストレスなのだと。
「気付いちまったんだから、しょうがねえだろ」
「スメラギさんも、困ったでしょうねえ」
「おう、盛大に困られたぞ」
 ついでに、危惧も向けられた。それでも許可は取り付けたのだからよしとする。彼の精神生理性不眠症について、味方につけた医療担当と意見の一致を見たのは、極力薬を使用しないということだ。それは、刹那が兵士だからに他ならない。
「それで、刹那は?」
 就寝前にロックオンがマイクロウェイヴで温めたミルクを持ち帰るのは、施設では既に密かな名物である。結果が気になるのだろうが、出来れば聞いて欲しくはなかった。
「……クローゼットで寝てる……」
 腹を抱えて笑い声を立てるアレルヤに、ロックオンはむすりとした顔を隠さない。
「笑ってろ、俺は絶対、あの野良を人間にしてみせるぞ」
「あははは、野良っていうか、そうか刹那はクリサリスだね」
「あん?」
「クローゼットの中の<さなぎ>」
 ロックオンはぽかんとアレルヤを見た。
 成る程、あいつは猫でも蝶でもなく、拷問具の中の生贄でもない。羽化もまだの<さなぎ>であったのか。
 だとしたら、あれの殻は強固にみえて、存外自分で突き破って出て来られるのかもしれない。ロックオンに出来るのはどう考えても待つことだけだ。さなぎのまま死に至るものも時にはいるのだろうけれど。
 それくらいには信じている。
 選択肢を与えられた彼が一人部屋に戻らなかった理由も、そうならいい。ロックオンとの<罰>を守る理由は、本当はないのだから。
「さて、俺も頑張りますかねえ」
「え、強行突破?」
「手は出さないが、声は出す」
 でないとろくなことが無い。ロックオンはいいざまアレルヤを残してハンガーのほうへと駆けた。
「結局、何なんだろうなあ、あの二人」
 残されたアレルヤがこの先に何となく不安を抱き、ハレルヤが興味を持って見送ったその頭上で。
 今はガンダムの中のさなぎに、ロックオンの怒声が届いたかどうかはきっと別の話だ。


2008/01/28 LIZHI
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