博士の微妙な愛情

「オレにはどうでもいいことだ」
 研究さえ続けられるならそんなものはどうだっていいのだと、けんもほろろに男の要請を突っ返した。だというのに、青年は機嫌を損ねるでも怒るでもなく、本当にそうかなと小鳥の如き素直な疑問符に首を傾げた。
「君のように矜持の高く誰より慎重な人間が、仮令普通の人間には有り得ない時間の貸与と表裏だとしても、自分以外の何かに生殺与奪の権を握られていたとしてそれに本気で納得しているとは―――オレには到底思えない」
 お前などに何が判る。冷たく切り返してやろうと振り向いた、青年の穏やかな色を宿した虹彩が瞬間まるきり焔そのもののファイアオパールに変化する様を目の当たりにして科学者は口を噤んだ。誤解を恐れぬならば呑まれた、といっても良い。余りに神秘的で謎めいて、俄かには現実とも思われぬ。それは、謎を謎のままにしておけぬ科学者の琴線を確かに震わせるものだった。
 表面上は穏やかに針を呑んだ囀りは続く。
「虹が、意識的だろうと無意識だろうと、一所に集まることがないのはどうしてだろうね」
 ―――役割? 確かにそれもあるだろう。あるいは、そのほうが自然。
「何がいいたい」
「素朴な疑問というやつだよ。オレは所詮門外漢だから、そういうアプローチしか出来ないんだ」
 だというのに、オレが君たちの多くと直接間接を問わず関りを持ったのは何故だ?
 他の奴らのことなど知らない。だが科学者は遠い昔、青年の命を狙った事実を思い出す。それは数多の星のひとつであったのだけれど。
「呪いとはよくいったものだけれど、縁というのもこの世にはあるだろうね」
 それはきっと、科学的でも論理的でもなかったけれど、呪いの輪に絡め取られた彼等にまったく別の階層からくびきを掛ける力ではあった。
 ―――全てが誰かの手のひらの上だなんてオレはけして認めない。
 足掻くように、彼は。

 基本、研究などというものは金と時間を際限なく喰うブラックホールである。
 研究者の実力の大半は、いかに自己の目的のために莫大になる研究費を集められるかという点につき、そうでないものは志を一旦脇に置いても一兵卒の待遇以下でどこかの研究室にもぐりこむ。いつかのために爪を研いで戦果を積み上げ、それすら叶わぬ者は野心と焦燥と身上書ともぎり取った推薦書を抱いて、言語の問題さえ突破すれば世界規模でラボの放浪をすることになる。そこまでの情熱が持続しなければこの世界を去るほかはない。半端な才能ならばないほうが幸せだ。とかくこの世は世知辛く出来ているのである。
 そういった世俗の事情などは何処吹く風、己が探究心を満たしてくれるというのであれば資金の出所が黒かろうと白かろうとヴェルデにとっては何の問題も無かったのだ。
「―――つまりオレはお前に慰謝料を請求する権利がある」
 いいざまヴェルデはビシィッと音がしそうな勢いで人差し指を突きつけた。相手はヴェルデの糾弾に僅かに上半身をのけぞらせ、ふうむと拳を顎に当てて考え込むポーズを見せた。実に悩ましげに眉根を寄せてはいるが、彼が真実懊悩の渦中にあるかどうかは定かでない。
 何しろ青年は噂に高きボンゴレ十代目だったので。
 沢田綱吉は甘やかなカラーを宿す虹彩を揺らめかせてそうかと呟いた。
「確かにオレの落ち度だね。気付かなくて申し訳ない」
 許して貰えるだろうか、と。
 これにはヴェルデが面喰った。突き付けたままの指先がへにゃりと曲がって行き先を見失っている。その間も素直過ぎる謝罪は滔滔と続く。
「そんな風に君を傷つけておいて、信じてもらえないかも知れないけれど悲しませる心算はなかったんだ、本当に。だから」
「だ、だから?」
 語尾の辺りが引きつったところで仕方の無いことだろう。ヴェルデは自分が何か大きな間違いを犯したような厭な予感に苛まれていた。一体どうしたことだ、冷や汗が止まらない。
「君が望んでくれるならこれからでも婚姻届を」
「誰が別れをごねた挙句結婚してくれと迫った愛人か!」
 ―――殊勝な気分は奇麗に吹き飛んだのだが。
「いや、記憶にないけどもしかしたらそんな事もあったかと」
断言してやる。貴様、間違いなく近い将来、赤ん坊連れた見たことも無い女一ダースくらいに押し掛けられるぞ、絶対だ」
「やだなあ、どっかの誰かじゃあるまいし
 そんなことしないよと自信ありげに反論する青年とそのどっかの誰かは遠い血縁なのである。
「オレがいいたいのはそういうことじゃない。冗談事なら相手を選べ」
「ううん、冗談じゃないからねぇ」
 オレ別に奥さんが研究馬鹿でもマッド・サイエンティストでも自覚の無い犯罪者でも愛があれば大丈夫だと思うんだよねと。
 ボンゴレは妙な具合に古風にたいそう問題のある台詞を無駄に軽やかにいい切った。
「自分でいうのもなんだけどはっきりいってお買い得でしょ。ボンゴレ抜かしても投資出来る資産ならまあ無限とはいわないけれど結構あるし。結果を出さなくていいとはいわないけど気は長い方だし、<エンジェル>の経験なら幾つかあるんでそこら辺は心得てる心算だよ。それにどうせヴェルデは対価になる結果ぐらいは意地でも出してくるだろう? 面倒な数打つ式の試験やるにも時間短縮を可能にする新技術の開発くらいはウチの企画部のほうで、そうだなあ技術協力? 出来ると思うしね。ああそれもオレ個人の依頼になるから組織とは無関係―――という建前で。その技術を本業のほうに転換するくらいは許して欲しいかなあ。結構いい仕事するよあそこも」
 どう? と。
 口にしたのが彼でなければ誇大妄想狂の戯言と一蹴されるような提案を、一片の誇張もないただの事実として披露してみせた。
 大前提さえなければ余りに魅力的な餌である。ヴェルデは認めた。一瞬くらっとするほどだ。天才だろうが何だろうが、否、だからこそ、所詮は一般常識とかけ離れたところで物を考える癖のある真理の虫だった。
 ―――そもそもヴェルデがこうしてボンゴレに直談判するような羽目になったのは、何を隠そう世界の均衡を崩したのがこのとぼけた味の青年であり。コトの性格上そこにヴェルデが加担したことを否定はしないが―――結果、それまでヴェルデの使っていた財布までが機能しなくなってしまったことは余りに痛く、つまりは未曾有の資金難がすぐそこに見えていた。今までであればさっさと別のスポンサーをとっ捕まえてしまえばすむことだったが、表向きには凪に見えてもその実大揺れした世界の波はヴェルデのところにまでやって来て、今度こそ避け切れなかったのだ。
 なによりこの男には―――。
「君は才能を切り売りする必要は無くなる」
 ボンゴレはあくまで穏やかな表情を崩すことなく悪魔のように託宣した。ヴェルデは思わず、といった風に顔を顰めた。
 確かに、そう確かにヴェルデは徹頭徹尾ラボの住人ではあるけれど、だからといって専門以外何も判らない訳じゃない。欲しいのはあらゆる真実と理とそこから生まれる未だ見たことの無い天上の伽藍。
 こんな全てを捧げるような顔の生き物は教会にだってそうそういはしまい。
「それで―――お前は何を得る?」
 ボンゴレはきょとんとその稀有な双眸を瞬かせ、さあ、判らないよと答えた。もしかしたら何も残らないかも知れないね。
 ヴェルデは溜め息とともに思った。この男は大馬鹿でどうしようもないが見捨てるとたいそう後味が悪い。否、そんな良心みたいな役にも立たないものはとっくに捨て去っている筈だ。
 ならばこれは、試薬か実験動物に対する興味にも似たものなのだろう。
「まず」
 奇妙に重い沈黙を破ったのはヴェルデ。
「愛がない」
「うん、わかってても胸が痛いよ」
「オレも今ちょっと忘れかけてたがお前、オレの性別知ってるよな」
「ヴェルデってほんと研究馬鹿っていうか、イヤジョウダンデスヨ、自分の性別って忘れるようなものなのかなあと思っただけ」
 そりゃあ存じてますともさ。
「じゃあなんで行き成り婚姻届なんだ」
「オレもそんな心算は無かった筈なんだけどね。慰謝料とかいわれるまでは」
「……オレのせいだと?」
「気のせいです」
 では、最初からやり直そう。神の御前ではない、人の世の契約を。

「ヴェルデ博士、貴方に、我がボンゴレCEDEFの一角を担って頂きたい」

 一ついい忘れたな。愛がないのはお前のほうだ。

条件提示。これで彼らが彼女たちだったりしたらどうしようかと思います。

2007/10/27 LIZHI
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