寒日

 東への遠征は疾うに慣れたものではあったけれども、国を跨いだ気候気象気温の変化に影響を受け付けぬほど鈍でもない。
 機能性重視で選んだ外套の袖を抜きながら、そんなことをいえばもうほとんど幼馴染といって差し支えなかろう同僚からは、きっと容赦ない罵詈雑言を頂戴することになるのだろうと山本は獄寺青年の選ぶであろう一言一句を実に有り有りと思い浮かべた。あらゆる意味で図太い鈍いは当時から自分に張られたラベルであったから。実のところ山本の交友関係においてそんな相手は他にいなかったのだけれども。
 一寸違うよね武のはねといって困ったように笑うのはもうひとかたの親友だ。とろこで彼ほど困った笑顔というものの似合う人間を山本は他に知らない。聊か感動を覚えるほど身体的な成長を遂げたにも拘らず、どこか母親似の童顔が微かな憂いをもって曇ると胸がざわつくし、それを払拭するようにけれど控えめに口端が持ち上がる様は柔柔としている癖に鉄壁で大抵の人間が二の足を踏む。付け込む隙に付け入る気力が殺がれるのかも知れないし、言葉にされる以上の意味を相手が勝手に汲み取るのかも知れない。
 とまれ、この場合何を思っての発言かは定かでないが、両名ともが山本にとって特異な反応を示す人間だったことと、現在の自分の在りようは不可分ではないだろう。
 繋がりを持った偶然の連鎖をあるいは必然と呼ぶ。どのみち選んだのは自分であるから、それにどんな名前がつこうとつくまいと構うことではない。彼等に比すれば山本の感性は笊の如きものだろうが、故に掛かったものを手放す気は無かった。
 連絡を通して開けられた扉からは暖かな気配がした。
 迎えるのは懐かしい音律。

「や、お帰り武」
「おう、ただいまツナ」


 スーツケースひとつで地球のどこにでも移動する裏世界のビジネスパーソンは、滅多なことでは故国の土も踏めぬ不自由の主にこの瞬間だけは変わらぬ郷里の言語で返した。多分始めはお互い反射だったろう。それからは惰性で、今は儀式めいてきた。感傷に似て違う。事実、飛行機に乗れば海を渡って二時間余りで里帰りが可能な場所にいても、山本が帰ると表現するのは日本ではなくこの場所だ。余所の土地では飲めない濃色の苦味を懐かしいとも感じる。砂糖を入れたそれを干し、茶色く溶け残った底にグラッパを注いで干し、綺麗になったカップにグラッパだけを注いで干した。冷えた躰はあっという間に汗をかいた。
「旨い」
「あのねえ」
 気付けの心算が添え物の酒のほうに山本の関心がいったのを見て取って、綱吉は乾いた笑顔を寄越した。
 いっそ端からお酒のほうがよかったかなと小首を傾げ、たっぷりの砂糖のために最早ドルチェに匹敵するカッフェを啜るボスには疲労の影が濃い。体力的なものというよりは多分に精神的。簡単な現状報告と二三の質疑を交えて、山本はおもむろに切り出した。
「獄寺は」
「ああ、うん」
 向かい合ってソファに埋まった綱吉は歯切れが悪いことこの上なかった。確かに好んで話題にしたいものではないだろう。コネクションを盾に取った力押しの縁談では確かに。密かに話を聞いた山本でさえ眉をひそめた。綱吉といえば、余りに見え透いた企みそれ自体に精神疲労を覚えているらしいが。
「……聞いた?」
「風の噂で一通り」
 それ以外でも一通り。綱吉は実に厭そうに額を押さえた。
「オレは一度プライバシーというものについて皆に膝詰め談判を申し入れたい」
「向こうは意図的に流してるしなあ」
 火のないところになんとやら、だが獄寺は鎮火に息巻いていることだろう。火に油を注ぐのでなければいいがあれで冷静なところは冷静な男である。
「顔を合わせただけで既成事実にされかねない状態でね」
 なるほど伝家の宝刀が抜けないので獄寺がハルとともに綱吉の名代を請け負った。そういうことだ。山本の帰還がこの日になったのも作為的でないとはいえない。手を回したのはボスではなかろうが、綱吉は気づいているだろう。ちらとこちらに視線を流す。
「甘やかされてるとは思うけど」
「そりゃお前が悪い」
「えええ」
 妙なところで真面目な綱吉は誠実に断ろうなんてことを考えるから、彼等が先んじて気を回したに違いないのだ。これで純粋なビジネスだったら平和的外交のためには絡め手もあくどい策も弄するボスなのだが。
「ビジネスと人間関係は切っても切れないし。イタリアは恐ろしいほどコネの社会だし。だからって隠居ジジイが何してくれてんだと思うけども」
 狒狒ジジイはともかくお嬢さんに瑕をつける訳にはいかないだろと、ここに至って彼はいうのだから度し難い。
「お嬢さんねえ」
 だがそれは、ハルと獄寺が問答無用で却下するような相手なのだということを失念しているか考えていないかのどちらかである。行状か性格かは知らないが結構怪しいものだと思う。相手を思えば血縁関係のない孫娘くらいは仕立ててきそうでもあった。そんなものをあの二人が許すはずが無い。そう考えてみて山本は、ボスの結婚相手は血の繋がらない小姑達つきでも平気な女傑か、全てを超越したような本物のお嬢あたりでないとまず無理だという、うそ寒い結論に達した。
「―――ご愁傷様」
「ちょっと、今なんか不吉なこと考えなかった?」
「気のせいだといいなあ」
「何、何だか知らないけど望み薄?!」
 もういいよこの話はと、不貞腐れたような綱吉の隣に移動してよしよしと肩を引き寄せた。触れたところから微かな振動が伝わってくる。彼は笑っているらしい。少しでも気が紛れれば御の字だ。何しろハードルは限りなく高そうなのだから。
 もしも綱吉自身がボンゴレの利益に適うかどうかで結婚相手を選ぶなら別だが、それ以外で彼等の要求を満たそうと思ったら友人は一生独身を貫く羽目になる。万一の時は自分だけでも味方してやろうと心に決めた山本の片頬に、大人しく肩を抱かれていた綱吉の手が伸びた。指の背の掠めるような動きに彼の視ているものを知る。
「眼立つか」
「入って来た時にはね、ああ寒かったんだなって」
 頬から蟀谷、そうしてやっと右瞼の上、余韻を残すみたいにピアノタッチの指がふわりふわりと移動する。そのいいように温度計かよと山本は笑った。顎のそれと違って、寒気に当たって浮かび上がる古傷はそれほどに普段意識の俎上に上らない。自分の顔を鏡でじっくり眺めるような習慣が絶無な所為もあるだろう。
「格好よかろ」
「自分でいうと男前が下がるなあ」
「そうか、これがあったな」
「ん?」
 獄寺への反証を見つけて何となく善い気分になる。綱吉の手もそうした気分を助長した。くすぐったいが何か気持ち好いからもっと触れと眼を瞑って強請ると今度は音立てて笑われた。山本はすっかり頭を背凭れに預けてしまったから、まるで堂堂と居眠りを決め込んだようなものだ。瞼の上を指が滑る。周囲より微かに色づいた影のような傷痕はきっともう視得ないけれど。この時期にだけ僅かに存在を主張するそれに過ぎ去った過去の残影を見ないでいいと思う。ただこの温みだけが抗いがたい。
 ぱちりと唐突に開けた両眼で捉えた綱吉の、うわ、と驚いて逃げかけた手を掴まえた。
「土産があった」
「指突っ込むとこだよ、吃驚した。何?」
「工藝茶と話梅ワームイ。でもオレのお勧めは紹興酒に入れるんだ」
「はいはい。ハル達が帰って来たらね」
「うし」
 再び瞼を下ろした山本に、けれども綱吉は片手を預けたままだ。部屋の暖かさに誘われて本気の眠りに落ちかけ、それを許すボスともども発見者に蹴倒されることになる。

 勿論というべきか、縁談は破談。ボンゴレと縁故を結ぶ為の血の繋がらない孫娘の正体が狒狒ジジイの愛人では弁解の余地はない。老人は自分の浅慮を悔やむだろうが今度こそ綺麗さっぱり隠居の身という話だ。そこに代替わりを推進した隠然たる勢力があったことは―――公然の秘密である。

暗くならずに山本の右目の傷話やろうと思って仲よしこよし気持悪い人たちに。あと蛇足↓

2008/01/12 LIZHI
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 ところでと、大きな黒猫がいった。
 ところでな、と小さな黒鴉がいった。
「あいつら如何してあんな片方無自覚にべたついてるわけ」
 と、黒くて猫科イクォールの肉食獣ではあるが愛玩物ではけしてない男が実に厭そうに。けれど少しばかり面白がってもいるように複雑な表情で。
「……あれが普通だと思ってる節があるからな、ツナは」
 と、大鴉 レイヴン の如き不吉さではあったけれども死を告げるよりは自ら与える殺し屋が、今ではない遠い所を見るように。
「何の普通?」
「訊きたいか?」
 ―――初めて出来たダチらしいダチがよ。
 ―――長年かけた刷り込みなんだ、やりにくいったらありゃしねえ。
 ―――山本がイタリアかぶれしたと思い込んでからは一層ガードが甘ェ。
 語り終えて、双方ともに違うほうを向いて顔を顰めた。なんとなく、ここにはいない右腕青年を乱入させたい心持になった。
 侮り難しは永遠の親友ポジションなのである。

どこから覗いてたんですかあなた方。とりあえず山もっちゃんは黒コンビより先に獄ハル(カップリングにあらず)の制裁を受けるべきだと思う。

2008/01/12 LIZHI
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