理想論

 世界は繋がっている。
 道は骸だけに辿ることを許された糸であり、精神は肉体という枷を捨てて深く潜り高く昇り飛翔し遊泳し―――また散歩する。
 そうして偶さかに見出した触媒は骸を実界へと現出さしめるけれども、波長の合う個はあまりに少ない。大抵は、めぐりめぐる世界をひたすら眼に写し、恐らくは永遠に近い旅の途中思い出したように水鏡の現世を覗き込むのみだ。
 ―――ぴしゃん、と雫の音がした。
「肉は、精神を守る鎧でもある。徒に捨て置いて善いものでもないぞ」
 誰かに似た声、誰かに似た波長、けれどもその人は彼ではない。
 はてここはどこの階層いずこの夢であったかと、六道を巡る骸は洞窟に人知れず息づく光苔か、熱を伴わぬルミネセンスの如き蒼白い燐光に眼を凝らした。正しくはそうした心算になった。骸の行為によって暗闇に燈った曖昧な灯りは判り易い人の容となって現れた。気付けば自身の四肢も淡く光を纏っている。
「貴方がそれを仰るのですか、ボンゴレT世」
「そんな名前だったこともあるか」
「白白しい、というのですよそういうのは」
「皆がお前ほど解像度の高い存在ではないということだな、ここでは」
 ぴしゃん、とまた落ちた雫の音に呼応して世界が変容する。
「階層移動をした覚えはありませんがねえ」
 現れたのは厭味なほどの蒼穹だ。上下左右、足場すらないそこで二人ははっきりと対峙している。
「オレではないな。大方惑うているのだろう、ほら」
 下向きに差し出した掌が契機になったように、水が、下方から上へと降って来る。さかしまの雨は見上げた天球に幾つもの波紋を作り、精神体であるというのに骸は軽い眩暈を覚えた。
 水滴の一粒一粒がプリズムの色を映して光る。複雑に重なり合った波紋がきらめく。
「吾が血族ながら面白いヤツだ」
 足場も無いまま落ちて来いとでもいわれているようだな、まあ落ちはしないが。そういうT世は豪奢な椅子にでも坐しているように優雅に脚を組んでいる。隔世遺伝というより先祖がえりといったほうが正しいような似通った容姿でも、現世を生きる沢田綱吉には未だ持ち得ない威厳を感じさせた。
 憎むべきマフィアの祖とすらいっても善いような相手である。
 血族ですか、と骸は取るに足らぬ戯言と一笑した。
「貴方がたのその純血主義ほど無意味で不寛容なものはありませんね」
 それは余りにも<彼>に相応しからざる言葉の檻である。否、相応しからぬのは少年のほうなのか。にも拘らず、絡め取る糸はせっかくの贄を逃がそうとはせぬのだろう。おぞましくも滑稽な人の営み。元から絶てればどれほど清清しいことか。
 ふと、自分の思考に違和感を覚えた。
「しかしお前はあれを欲するのだろう」
「ええ、目的のために」
「だから面白いというのだ」
 ボンゴレT世はそれまで殆ど表情のなかった能面じみた印象を、にいと鮮やかに口角を上げることで一変させた。オレがいうのも何だがな、と。
「あれは際限も知らぬような、いっそ狂おしいまでの現実受容のやからだぞ。肯定主義とは似て非なるが故に底なしの泥沼だ。要するに、お前のような理想主義者の勤勉家では正反対も善いところだな」
 耳を疑う形容に骸は眉を吊り上げた。 「僕が、何ですって?」
「まさか気付いていないということもあるまい」
 本当のことだろうよと片手を口元に典雅を容にしたような笑みがくつくつと落とされるが実体は性悪だ。この世界の主はこんなモノにまで存在を許しているのかと思えば沸沸と滾る怒りに攫われそうになる。
 否、そうではない。
「お前にとっての現世がどれほどか取るに足らぬものであったとして、愛憎嫌悪絶望悲哀皆掃いて捨てるほど世界に蔓延しているとして。そこで全てを混沌に還してしまおうと思うだけでなく実行しようというのが―――無垢な理想主義でなくてなんだというのだ、それとも」
 ピュアというべきかなと笑って、T世は骸の召喚したイメージの三叉槍の鋒を避けた。そして。
 シャボン玉の弾けるように霧散した。
 さかしまの雨は止んでいる。天空に溜まった水の揺らぎにはおおきな白い月が輪郭も曖昧に揺れている。水を透かして上に見えるのか、それとも下からの反射かは判らない。骸は足許を見なかった。いつも彼方ばかりを睨んでいた。
 月の光は一度死んだ光だ。
 ひそやかな光苔、暗闇に浮かぶルミネセンス、ここに在った彼もまた炎の残影にすぎない。
 容を与えたのは骸だ。では言葉を与えたのは?
 揺らぐ皓月に向かって骸は呟く。
「……起きなさい、沢田綱吉」
 ―――ぴしゃん。
 また元の暗い空間に戻ったと思われた骸は、直後、とぽんと軽い音を立てて水中に落ちた。そのまま泡とともに仰向けに沈んで行きながら、水を透かして見上げれば夜空であることに気付いた。小さく暗い星が幾つか見える。
 纏わり付く水には粘度があって、砂糖を溶かし尽くした飽和溶液のようだと思う。
 限度まで溜め込んでなお、どこまでも抱え込もうとするような。
 それは原始のスープに似ている。
 粘度を持った水の腕が骸の頬の辺りを舐めた。誰かに触れられた錯覚。
「まったく甘い男ですねえ」
 しかしこれ以上の接触は避けたほうが賢明だろう。
 三叉槍を振るう必要すらない。離脱の意図を込めて瞼を下ろす。それだけで善かった。
 飽和溶液は溶質を別なものに変えればまたそれを溶かし受け入れてゆく。それでも物事には限度というものがあるのだ。それらはいつか溶媒のなかで凝ってまったく別の何かとなって彼の内に生まれるのかも知れない。
 ふと、この眼でそれを見てみたいような心地になった。

 理解は出来ない。けれど、嫌いではないのだと。

時間軸は不明。予想外にT世が出張りました…。お陰で綱吉さんいませんけど心意気はムクツナですよとかいってみる。いっそツナムクでも構いません(え)

2007/11/17 LIZHI
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