さよならサンタマリア
決めてやると男はいった。何をだと問えば何でもと。オレが決めてあげる、だから君も決めればいいと。
青年の言葉の全ては傲慢で意味不明でまるで見知らぬ国の言語に似た。遠い昔に滅んだ都市、埃を被った本の中の呪文、願い事を迫る魔人のように。どうしてか反発する気力を根こそぎ削いで行く。あの声のせいだと少年は知らず戦慄した。高くも低くもないトーンはヴェルベットの肌触りで蔦の様に躰を心を絡め取る。
みっともなく、路地に倒れ臥して見上げた影は切り取られた空を背負っていた。光の加減がちらちらとヘイゼルの瞳と髪を透かした。始めは学生かと思ったのだ。若く脳天気なアジア系の観光客か休暇中のビジネスパーソン。東洋人は若く見えるのだということくらい知っていた。どちらにしろいいカモだと。服や靴、身なりのもっと些細なところ。小さなピアスの石の光は模造品なんかじゃない。詳しいことなど解らぬが金の匂いを嗅ぎ取るのは生きる為の術だった。
それが、全くなんてざまだろう。
「うーん、君、要領悪いっていわれるだろ」
小首を傾げて男はさらりと追い討ちをかけた。情けなくて涙が出そうだ。
「……アンタに関係ねえ」
「へーえ」
そういうことをいうのはこの口かと頬を千切る勢いで抓まれて、切れた口端にまた新しい血が滲んだ。しょっぱい鉄の味が咽喉に絡みつく。とうに痛いと喚く気力もないがこの仕打ちは何だというのだろう。
「文句をいえる立場だと思ってる?」
思いません。音になったのはおもひまへんだったが意思は通じたらしい。僥倖だ。手が離されてほっとした瞬間を逃さず引っ張り上げられて、急激な視点の変化にまるで赤ん坊のように首が上手く据わらない。背中に当たった硬さが壁か地面かも一瞬判らずに。
「お、結構いい躰」
気付けばヘイゼルはすぐ眼の前にあった。確かに若いとは思ったが、顔だけ見ればハイティーンで通るだろう。
「……そーゆー趣味の方すか」
「……そーゆー方面に紹介してあげてもいいんだけど」
勘弁して下さいっていうかアンタいったい何者ですか。心の葛藤を読み切ったように、「というのは冗談で」
ぱっと解放されてずるずると壁―――だったらしい―――をずり落ちる。ざりりと音を立てて頭や背中が擦れた。そろそろ少年にも相手がちょっとばかり腕っ節が強いだけの青年とは思えなくなっていた。十分前の自分を呪うのも不毛に過ぎる。このまま売られたりするのだろうか、今とそれほど変わるわけではなさそうだと。思ったことは口を突いていたらしい。
「悪いけどそんなボランティアはやってないんだ」
バラなら話は別だけどね。ああそうですか。これまた見た目を裏切る、打てば響くような毒舌製造機。痛いやら可笑しいやらで頭に霞が掛かってくる。ぼんやりと力の抜けた手足を放り出して、どこかズレた会話を交わすことに違和感がなくなってきた。それを危ないとも感じない。
「ああ、その顔」
もうどうでもいいやとか思ってるその顔、似すぎてて腹が立つんだよね。そんな意味不明の理由で自分は精神的に小突き回されているのだろうか。
「ねえ、そのうちこんなんじゃ済まなくなるよ」
「……そんなん、知らねえって」
少年らを使っている元締めが、この辺りの組織とどんな繋がりがあるのかないのかも知らないのだ。自分の身を守るなにものも持たなかった少年はいつのまにかそこに組み込まれていた。抜け出す方法など知らないし考えたこともない。
「うん、今知っただろ」
知ってもどうにもならないこともある。この青年は、やはり身なりに相応しい生活しか知らないのだ。羨まないといえば嘘になっても誰だって生まればかりは選べない。そういうのは、仕方のないことだ。仕方がないのだと諦める以外に何が出来るだろう。
だから、自分など放って早く立ち去ってしまえばいい。警察を呼ばずにいてくれるなら感謝したっていいのだから。面倒ごとを避けるならその確率が高かろうし、もし呼ばれてもここを逃げ切ればいいだけのことだと掌に力を込める。
何を思ったか彼はぽんと手を打って、決めた、といった。
「オレが決めてやることに決めた」
「―――は?」
思えばそこできっぱり反発出来なかったことが全てを暗示していたのかも知れない。
「そいつぁどこのボロ雑巾だい」
引きずられていった先の、どうやら左官職らしきよく日に焼けた壮年の男は皺の刻まれた顔にさらに皺を寄せ、よく光る眼をこちらに向けて、白と灰色に塗れたままの手で白と灰色に塗れ草臥れた帽子を取ると「ふうむ」と聞こえる息を吐いてがりがりと頭を掻いた。
接点のまるで見えない男たちを少年はぼんやりと眺めていた。並んでいると年齢的には親子のようでもある。見た目はまったく似ていないが。こき使ってくれて構わないというのは自分のことだろうかとやはりぼんやりと思った。結局人身売買にあったような気がするが、『文句をいえる立場』でないのは解っていた。
「じゃあ、お前これ持ってろ」
ほれと突き出された長い柄のものを反射的に受け取って。この瞬間、取り合えず工房の掃除が少年の仕事になった。最初の給料は飯が食えることと寝る場所があること。冗談じゃないといえるほど満たされた思いはしていない。そう、彼のようには。
恵まれた、酷く恵まれた男。恵まれた現実を享受しているだけの祝福された存在。通り雨のような無関心さで仕事と寝る場所を与えておいて、楽しそうでも可笑しいのでもなく彼は唇端をゆるりと上げた。次は君の番だよと。
「マルかバツか、はいかいいえか、選ぶだけなら出来るでしょう」
「……いいえなんかあるのかよ」
「ないね、でもそれも君次第だ」
そのときはいいえに伴う代価も君のものだよ。代価を、いい換えれば代償だ。どこかで見たことのあるその微笑に似たものを思い出せそうで叶わなかった。
親の顔を知らないのは珍しいことじゃないと親方はいう。
殴られて育ったことだけ覚えているといえばそうかと。生きる為ならなんだってしたし、痛い思いをするのは嫌だった。きっと人殺しになるのだって時間の問題だったけれど、いい募ることではない気がしたのでそのまま黙って手を動かした。でなければ鼻で笑われたかも知れない。接点の見えない男たちの共通点は口が悪いことだから。どうやら自分の親方になった人は口数の多いほうではなかったけれど。
それでも彼の元には時々来客があって、そんな折には少年は外へ出ているのが常だった。現場での作業中や前後に親方が呼ばれるときはその人間が小銭を寄越した。額はまちまちで大体の時間をそれで計った。いわれた通りバールに行くこともあれば、ぼんやりとしているだけのこともある。一度早く戻り過ぎて怒鳴られてから余計に気をつけるようになった。世の中には知らなくてもいいことが山ほどある。
町ですれ違った見覚えのある顔はけれど声を掛けてくることも、少年を脅しに来ることもなかった。真っ白だからだろうか、と不思議な心地で自分の手を見詰め頬を擦った。
「生石灰が消石灰になるときに熱を出す」
腕や脚、大きな躰全体を動かして、それでも無駄の無い仕事をしながらいつもぼそりと思い出したように粉塗れで話す。バールで買った菓子を頬張る時も親方の手や顔は真っ白だ。小さな動きひとつひとつが彫刻よりもいっそ彫刻らしいのは、そのひとを形作るのにいらないものなど何もないからだろう。
反応が完全に安定するまでには一月以上水の中で寝かさなければならない。質の良いものになると一年以上も寝かす。そうしてようやく暴れ者の石灰は漆喰の『もと』になる。
それを親方は石灰が育つのだといった。寝ながらゆっくりと育つ。それをじっと待つのだと。いちねん。区切るように呟いてみた。長いのか短いのかよく解らなかった。
「こいつらは本当に危なっかしい。使い物になるまでには時間がかかるもんだ」
そうすりゃいいものが出来るのさと、勉強という口実で連れ出された町の一画に施された漆喰画を見上げて親方はいった。何時ものバールへと向かう道だった。そんなものがここにあったことにも気付いていなかった。僅かに色の入った白のおうとつは強い日差しに影を作って鮮やかに形を浮かび上がらせている。
皓く跳ね返るひかりはきらきらと眼を射るようだ。
「なあオヤジ」
「何だ、腹が減ったか」
おもむろに行き着けの店へと足を向ける背中を慌てて追いかける。訊きたいことは山ほどあったが、どこからどこまでなら訊いても良いのか悪いのか、まるで見当が付かなかった。そしてこんな風に自分の行いの結果を―――それがどんな些細な事でも―――相手を慮って先回りしたことなど、一度もなかったのだと知った。以来、そこを通る度に漆喰画を見上げる癖がついたことだけが自分でも判る変化だ。
道の反対側にその車を見つけたのはほんの偶然だったろう。
外からドアを開けられて出て来た青年の姿は周囲の男たちに遮られてすぐに見えなくなった。欠片のようなヘイゼルの残影。ダークスーツの集団が建物の中に消えてからも少年はそこから眼を離すことが出来なかった。飛び出しかけて肩に掛かった手の重みに我に返る。驚いて震えた自分にまた驚いて、どういう拍子か枷が外れたみたいに唐突に、眼の前の景色がぐわりと歪んだ。何故だかなんて知らない。激情は攪拌されて色も形も定かでない。そもそも何に触発されて溢れたものなのかも少年には解らなかった。
ただ、出会った時に指先に刺さった細い、眼に見えぬほど細く鋭い針が旅路の果てようやく心臓に達したかの如く心と躰を支配している。いつの間にか移動させられていたことにも気付かないほど。黙したままの大きな掌の感触が背中を叩いた。
「うっ、……ぅえ、ッ」
馬鹿みたいに、どこかの餓鬼が嗚咽を繰り返す。落とした飴玉、空に逃げていった風船でも惜しんでいるのか。誰か何とかしてやってくれ。お願いだから何とか。時間が経っても添えられたあたたかなものはそのままで。
ひとつ思い出したことがある。
痣や擦り傷は綺麗に消えても瞼から消えなかった曖昧な笑み。冬の冷たい雨のために軒を借りた教会の、古くくすんだ壁に掛かった一枚の絵。青い衣を纏ったそのひとを。
とても、とても嫌いだったことを。
建物に消える寸前、振り返った姿をきっと忘れない。
まともに見えたわけじゃない。白昼の幻。気のせいかもしれないけれど。
ほんの一瞬、あのひとは絵の中の聖母のように微笑んでいたのだと、そう、思う―――。
自己満足でも偽善でもなんでもいいんだ。
2006/03/04 LIZHI
2007/09/16 改訂
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