少年と月の重力加速度

 標的は遥か前方で嘲笑うようにその身を晒している。
 風に揺れる木の葉のように無防備に。仮令繋がれた虜囚であってもお前よりはましだといいたげに。
 ならばその身を撃ち砕いてまことの自由を与えてやろう。まったき自由を。男は掌の中の鈍くひかる兇器を構えた。これで最後だ。残された銀の矢がどちらに微笑むかは運次第。
 そして、撃発―――。

 直後、手前の地面が細く土煙を上げた。

 脱力感と同時にいい加減バカになり掛けた耳にも痛い沈黙がその場に落ちる。空気は肌に刺すようで、弾着は明らかに的ではなく手前の地面にばかり集中していた。でなければとんでもないところに穴を開けるといった具合で、作り物の月のように丸いゴング・ターゲットはまるきり歌を忘れた金糸雀の如し。
「―――マイナス千点」
「零点ですらないの?!」
「当然だ。マイナス千と十点」
「い……」
 今の発言のどこにマイナスポイントが。思いはしたがおそらく口ごたえそのものが減点対象なのだろう。解っていても止められないのは哀しいかなもはや習性としかいい様がない。
 特訓といえば山だと思っている節のある家庭教師はいつの間にか用意していたディレクターズ・チェアに納まって、何だてめえまさかあれで点が貰えるなんてビチェリンみてーな極甘なこと思ってた訳じゃあるまいなと容赦の欠片もありはしない。手や足が飛んで来ないのは偏に当人が定時のコーヒーブレイク中だからだ。綱吉はぐっと詰まった。
 姿かたちが人間らしくなってきた幼児は読みにくかった無表情を薄い笑みに集約することが多い。笑いたくて笑っているのではなく常態がそういうかたちをしているとでもいうように。コンマ単位の感情表現は相変わらず限られた人間にしか読み取れないが、今の彼は誰がみても機嫌が悪いと評するだろう。
 整った面に浮かんだ凶相は元が綺麗なだけに寒気がするほど恐ろしい。
 立ち位置から十メートルほどの距離に取られた即席の―――適当な針金で木の枝に吊るした金属の板である―――ターゲットはゴングを打ち鳴らすことなく始めからしんと静まり返ったまま暢気に風に吹かれていた。銃器の扱いは一通り、強制的に学ばされたが綱吉の撃った弾が狙い通りに跳んだためしは未だない。反動によろけながら的を掠ったのも最初だけという体たらくに、ビアンキを笑うどころではなくいびられる日々だ。あそこまで曲芸的ではないものの畢竟五十歩百歩ではあろう。
 進歩じゃなくて退化してどうすると。いっそ見事だなと皮肉られても返す言葉のあるものか。相手に向かって投げつけた方がまだダメージを与えられるのではなかろうかと綱吉はじっと手の中の武器に視線を落とした。当たれば結構痛そうだけれども。
 歴史と伝統に裏打ちされた優美なフォルムを称えられようともやっぱりそれはごつごつしている。
「阿呆なこと考えてるんじゃねーぞ」
「冗談だよ」
 半分は本気だが。
 黒くひかる艶やかな石のような瞳が綱吉を射るのにひくりと頬を引き攣らせて、とりあえず投げるのは最後の手段にしておこうと下ろした腕がじわりと痛んだ。腕だけでなく、気付けばだるさは全身に蟠っている。射撃が実は全身運動だなんて詐欺だ。
 頭の中の理屈に躰がついて行かないのはなんとも歯痒い。
「ツナ」
 無精者に指一本で呼ばれておそるおそる近付くとタオルが顔を強襲した。のわ、と間抜けに吼えたところで手からするりと重みが消える。
「あー、ありが、」
 礼をいい切る前に、ジャコ、とタオル越しに硬いものを当てられた。空気が痛い。さっきよりもずっと。綱吉は避けることさえ出来なかった。
 ユルんでんじゃねえぞとリボーンは。
「テメーが頭で考えてなんかイイコトあったか?」
 温度の低い声で通告する。
「ひでえ」
「真実だろ」
 苦いものを噛みしめて飲み込んで綱吉は柔らかな目隠しを引き下ろした。冷たく感じる汗は躰が冷えたせいかそれとも今この瞬間の少年の視線のせいなのか。
 引き鉄を絞るだけの行為は綱吉の躰と精神に傍目には見えぬ大きな負荷を与えるけれど。
 ―――ああ、弱いなあ。
 くしゃりと自分の顔が歪んだのが判る。それでもきっと彼の溜め息よりは痛くない。
 まだ小さな手が手早くカートリッジを入れ替えて、再び渡されたそれは綱吉の手の中でまた重みを増した。肩に掛かるものは少しずつ、少しずつ重くなってゆく。
 それでもだ。
「ダミーカートだ。しばらくそれでいけ」
 D'accordo. どうやらトレーニングはまだまだ終わらない。

2006/02/13 LIZHI
No reproduction or republication without written permission.

CLOSE