「先生、すみません」
どうした、と振り向いた教師は板書のために握っていたチョークをぽろりと取り落とした。とある筋から『猛獣使い』と噂される生徒はそれをしっかり見て取ったが追求はしないでおいた。というより今の彼の意識は別なところに行っているのでそんな暇はないというのが正直なところ。
微妙に蒼褪めた顔を申し訳なさそうに歪めて「保健室に行ってきます」と述べる態度は殊勝だが台詞自体はお伺いではなく宣言である。同時に教室の一部から発せられる異様なプレッシャーに晒されて、教師は無意識に胃の辺りを押さえつつ頷いた。仮令行き先がどこであろうとこういった場合に彼の行動をとがめてはいけないことは増え続ける胃薬の量が物語っている。頼むからペットの躾はしっかりやってくれ沢田。飼い主の義務だろう。
「そうか……気をつけてな」
「……はい、失礼します」
……、の間に両者の微妙な感情の交錯があったとしても口には出せない。
ぴしゃりと閉まったドアに続いて立ち上がったもう一人が当然のように後を追うのを止める手立てはうつ病寸前の地方公務員にはあるよしも無かった。ちなみに二人の様子に何故か色めき立った女子生徒たちがいたことも頭痛の種であることを追記しておく。短くもない教師生活、年々解らないことが増えていくのはどうした訳だろう。
沢田綱吉。獄寺隼人。
一見共通点のなさそうな彼らを中学以来の友人と大雑把に括ることも可能だが、より真相に近いであろう言葉を当てはめたのは誰だったか。
猛獣使いとただし書き付き忠犬のコンビ(異論あり)は高校においてもますますもって健在である。
「獄寺君ッ!」
「はい!こんな奴らは今すぐに!」
「じゃなくて校内ダイナマイト禁止ー!!」
校舎と外部の死角になる位置で綱吉たちは本日の招かれざる客のお相手を不本意ながらもこなしていた。奇襲を狙った相手はどうやら自分たちが奇襲を喰らうとは考えてもみなかったらしく大層判り易く浮き足立った。隙が出来るのを待っていたのか周囲を巻き込む腹だったかは知らないが物騒な気配が垂れ流しな辺り『本職』ではあるまい。構える前に倒すのが得策だ。
別に、綱吉は自分を殺しに来ている相手に情けをかける聖人君子ではない。吹き飛ばすのは話が早いが、あんな派手なものをぶちかまして言い訳のきかない状態を無関係な他人様に見咎められるのはご免である。ぶっちゃけ頭にあるのは保身のみ。中学と違って本気で退学の危機だとかむしろ警察沙汰だとか。裏工作は面倒臭いし警察沙汰は業界的に不味いから目撃者を消す方向で
ちらっと本気で考えてごめんなさい。
「気にすんな。そうなったらイタリア強制連行してやる」
「それが嫌なんだっつうか手伝え!」
「狙撃チームは駆除済みだ」
あとはお前らの持ち分だぞ。
吹き飛ばすのは諦めての各個撃破中、消音器付きの銃口と鉛弾を避けながら見上げた木の上から降る声はあくまで涼やかだ。ぷらぷら揺れる脚を既にもてあまし気味な子どもは口は出しても手を出す心算はさらさらないらしい。フフンと笑う姿はまるきりチェシャーキャット。もしかしたら透明にだってなれそうだ。
顔の横でナイフが宙を切る。太い腕を抱え込んだ綱吉は相手の勢いを利用してそのまま投げ飛ばした。
「っだー!鬱陶しいっ」
吼える主に惚れ惚れしている右腕候補がいたりしたが置いておく。
実のところ、こうした襲撃は以前からぽつりぽつりとあったらしい。
ある日綱吉が気付いて以降、降りかかる火の粉は自分で払えとの家庭教師のお達しが出た。ずっと気が付かない振りをして置けばよかったと考えて、当然のごとく思考を読んだリボーンに三分の二殺しの目にあったことは忘れたい過去である。だが、どれほど不本意であろうとクラスメイトや無関係の人間を巻き込む心算はさらさらないから以来こうして文句をいいつつ陰で始末をつけているわけで。
学校生活くらいマトモに送りたいというささやかな希望は綱吉に限っては無謀な我侭に変貌するらしかった。こんなおっかない兄さん方の追っかけなんぞ欲しくない。頼むからどっかに行ってくれ。
特に顔!と叫んで拳一閃。そりゃマフィアだからなと職業差別的なことを考えつつ、リボーンは余裕があるんだかないんだか解らない少年を眇めた眼で眺めていた。武器を持つ相手に対し基本的に綱吉は徒手である。身を低く、鉛弾を避けながら体格に勝る相手の懐に飛び込んで。銃を持つ片手をひねり上げて落ちた金属の塊を靴の裏で押さえ、ほぼ同時に『怖い顔』の顎を突き上げる掌底。下がってふらついた頭を横なぎに蹴り飛ばす。蹴った足を軸にして逆の脚をもう一人の鳩尾にめり込ませた。まだだな、リボーンは思った。
足首を捕まれてふっとバランスを崩しかける。銃口。貰ったぞボンゴレ。威嚇する犬のように口を開けた鬼瓦にうぎゃあと心で叫びながら綱吉は地面に付いた片足で跳んだ。十代目、と獄寺の声が聞こえた。
鬼瓦が貰ったのは側頭部への蹴りだけだ。
「リボーン!」
すたんと降り立って奪った銃を使うでなくリボーンへと放り投げる。結局綱吉と獄寺は家庭教師の手をわずらわせることなくその場を収束させた。ふむ、とリボーンは手元に視線を落とす。セミプロ六人を二人で相手して三分二十六秒。いかんせん無駄が多いなと本日の計測結果を頭に刻んでストップウォッチを懐に仕舞った。男たちは全員気を失っているようだ。
「アホか、投げんなっつってんだろーが」
木から飛び降りたリボーンは獄寺がでかい蓑虫を作っているのを尻目に出来の悪い生徒を足蹴にした。銃は精密機械だと何度いったら覚えるのか。趣味じゃないそれをひたりと向ければ綱吉は降参とばかりに両手を挙げる。このへんの妙な素直さがまだまだなんだとリボーンは思った。尤も反抗されれば当然のごとく鉄拳制裁をお見舞いするが。
「だってその辺置いといたら危ないだろ」
いちいち蹴るなよと恨めし気にリボーンを見ながら、お前が持っているのが一番安全だろうと綱吉はいい返す。コンマ以下で眉を顰めた家庭教師は見なかったことにして。両手を打ち合わせて汚れを払う真似事は終わりの合図でもあった。こんなところに来る物好きも滅多といないだろうがゼロとはいえない。学内に入り込む賊は大抵の場合少人数なのが救いだった。
「―――さて」
獄寺君お疲れと気絶した相手を不必要なほどロープでぐるぐる縛り上げた自称右腕を綱吉は労う。周囲を巻き込みたくない綱吉が時折こうして異物の気配を感じて出ればいわずとも付いて来る彼はそれだけで笑顔だ。伊達に二つ名を持つ訳ではないから危機に対する反応も早い。男たちの服がところどころ焦げているのは見なかったことにしよう。チビボムは許容範囲だ、多分。
「どこの奴らかはわかるの?」
「ナメてんじゃねえぞ」
襲撃者たちは身元の知れるようなものを所持していなかったがそこは蛇の道は蛇。主要メンバーはおそらくリボーンに潰された方だ。さすがに周囲を気遣いながら第一線の相手を出来るかといわれればノーだと綱吉は自分を冷静に判断している。
「じゃ、オレたち行くけど」
後はボンゴレの派遣部隊が引き取っていくだろう。手を出さないのは彼らの請け負うのが純粋に後始末であり、これが綱吉たちの実地訓練をも兼ねているからだ。本当に冗談じゃない。
「ああ、しっかり勉強してこい」
「だったらこっち抜け出さないで済むようにしてくれよ」
いい加減口実も底をついてマンネリ化も甚だしい上に妙な誤解すら招きそうだ。綱吉の嘆き節にリボーンは再びチェシャ猫の笑みを浮かべた。
「相変わらず阿呆だなお前」
さっさとタイムを縮めりゃいいと、家庭教師は駄馬の尻を鞭で叩くようなことしかいわない。結局それしかないのかよと綱吉はげんなりした。平穏な日々はかくも遠い。
◆ ◆ ◆
―――結局のところ認識が甘かったということだ。
「……下手なヤ印よりよっぽど怖い奴らがずーっと側にいたっていうのになあ」
ああ、羊が十匹、羊が二十匹。ダイナマイトの餌食や刀の錆になっていく群れを眺めて綱吉は随分と遠くなった過去を思う。ようするに暇なのだが。
無駄に美形な友人知人部下協力者どもの外面如菩薩内面如夜叉っぷりを見ればたった今吹っ飛んだ相手のパグ犬の如き可愛らしさに涙が出るというものだ、とかつての不明を恥じてみたり。
「テメーは昔っから面食いだったぞ」
何ほざいてやがるとその筆頭のような少年が呆れた声音でもって綱吉を見上げた。会話に付き合うそぶりはこれまた待機に飽きたのだろうことが容易に判る。
「同じ怖いなら見目良い方が精神衛生上いいかもなんて誤魔化しさえ許さないってどうなのさ」
「はん、誤魔化す必要なんざあるかよ」
オレは行くぞ。あいつら無駄が多すぎる。そういって抜け駆けに走るリボーンもまた退屈の虫が騒いだだけなのだと綱吉は苦笑した。今にして思えばあの頃彼は相当にストレスを溜めていたのに違いない。その分矛先が綱吉に向いていたのは全く有難くない事実だが。
綱吉は傍らの男たちに合図する。彼らにばかり獲物を攫われるのも癪だから。
―――そろそろ片付けさせて貰おうか。
そして平穏な日々は相も変わらず遥か彼方。
2006/01/08 LIZHI
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