オークションに行きましょう

「どうして」
 他に言葉をみつけることが出来ずにアーシアは驚きで一杯に開かれた眼を、その人と彼の傍らに向けた。
「いったでしょう、オレは代理の代理ですって」
 これもそうです、宅配便だとでも思って下さい。ああでも大丈夫、管理はちゃんとプロの仕事ですから。
 そういって彼はまるで『お使い』が上手く出来たことを褒めて欲しい子どものように笑ったのだ。

◆ ◆ ◆

 会場は一種異様な緊張の只中にあった。参加者は潮騒のようにざわめき、顔を出さない依頼人とモバイルでリミット寸前までの交渉を続ける者も、泰然として時を待つ者も同じように『彼女』に飢えていた。
 子どもが大人になるほどの、産まれた子どもがかつての彼の歳になるほどの、長きに渡って闇に隠れていた『聖母子』がオークションハウスの英断によってようやく光の当たる場所に舞い戻って来たのだから。
 そういった興味交じりの熱気とはうらはらに、何時まで経っても慣れぬ正装にアーシアは舌打ちしたい気分でいた。同じ美術品に携わる人間であっても、この世界は自分のものではないと肌で感じる。これならば作業着で学芸員という名の力仕事をしていたほうがまだましだ。
 主任は諦めろと彼女にいった。仕方がない、諦めるんだと。館長が決定したことなんだ。
 無論、ここまできてオークションに文句をつけることなどキュレーターの一人でしかないアーシアには不可能だ。よしんば出来てもガードにつまみ出されるのがオチだろう。仮令その『聖母子』が彼らの美術館からかつて盗まれたものであってもだ。
 イタリアの法では既に盗難品の売買において時効が成立している―――。
 無法者を法が後押しするのだわ。アーシアは思う。だけれど、そうでもなければ絵は返って来なかった。死んだも同然だったのだ。事実と現実が哀しいくらいに証明している。
 美術館にも『聖母子像』の返還を要求することはもう出来ない。いや、道義的に返還すべきだと訴えることは出来ても、それが何の役に立つだろう。すべては絵を競り落とした人間の意思のままに。
「どうして君がそれほどあの絵に拘るんだ」
 アーシアの怒りに辟易したように―――実際かなり参っていた彼はしまいには胃薬を手放さなくなった―――主任は訊いた。一度も本物を見たことのない絵。その通りだ。青い正義感や使命感が欠片もないとはいわない。彼女は実際心底怒っているのだから。
「エスティメートはこんなものかな」
「……お役に立てずすみません……」
「うんいいよ。オレも似たようなもんだし」
 アーシアの横に「失礼しますシニョーラ、こちらよろしいですか」と座ったアジア系の青年たちはどうやらジャッポネーゼらしい。学生の頃、日本の伝統工芸展に借り出された際少しばかり齧ったことのある言語が耳に飛び込んだ。どこか懐かしい気がして横目で見た二人はどちらも酷く若くみえる。けれどまったくこの場に遜色がないそのことにアーシアは驚いた。
 そして彼女の今日一番の驚きは、彼らが『聖母子』を競り落としてしまったことだった。

「待って下さい!」
 堪らず追いかけたアーシアを遮ったのは二人を守るように前に出たダークスーツ。ツナヨシ様、と。その奥で先程の青年が促されていた。仮令それがなくともアーシアには彼らのどちらがより優先されるべき相手なのかが判っただろう。待って、と。彼女の無謀が周囲の目を引いていようと構わなかった。
「待って、隼人」
 周囲に何もないのだと示すように穏やかに微笑んで、彼は止めようとする人間を僅かな動きで制した。それで彼女はガードが不審者を捕まえようと動いていたことに気付いた。ああ先程のシニョーラ、何か僕にいいたいことでも?
「話を聞いて欲しいの」
「ではお茶を、いえそうだな食事をご一緒して下さい。勿論貴女のご都合が合えばですが」
「時間ならもう腐るほどあるわ!」
 ツナヨシというその青年はちょっと眼を瞠って「それはすてきだ」というや周囲を黙らせ彼女をエスコートしたのだった。

 アーシアは人生のうち今ほど正装でいて良かったと思ったことはない。
 都会の、プライベートガーデンの中にひっそりと建つホテル。その見るからにハイレベルなリストランテの更に個室。
 どうぞくつろいで下さいねとツナヨシは無茶をいう。
「客を緊張させるようではホスピタリティがまだまだだと兄弟子もいってましたし」
 ―――兄弟子?
 といっても僕もこのリストランテは初めてなのでお互い様ですね。食べられないものはいって下さい、主義信条ににそむく様なものは出しませんから大丈夫。食前酒はいらない? ではワインくらいは付き合って下さい。僕が寂しいから。
 ワインはとても美味しかった。
「それで貴女のお話は『聖母子』?」
 セコンドのアーティチョークとポテトのフリッテ添え豚フィレ肉を終えて、さてドルチェとなったタイミングで彼はいった。
 アーシアは一瞬でも目的を頭の外に置いていた自分に気付いて愕然とした。
 なんたること!
 会話が全くなかったわけではない。いつの間にかくつろいでいたのだ。すっかり、まんまと。カン、と甲高い音がスプーンと皿の間で起こった。
「そちらが被害者といえども既に返還要求は無効です。ご存知ですね」
「私があの美術館の関係者だと?」
「貴女はどう見たって記者という感じじゃない」
「返して欲しいなんていわないわ」
「では何を望みますか、アーシア・ブルーニ」
 ひゅっと彼女は息を呑んだ。
「ツナヨシあなた……いえ、あなたが誰でもいい。あの絵を、『聖母子』を美術館に貸与して頂きたいの!」
 それも出来れば無償で。やるべきことを思い出せば、坂道を転がる車輪のように加速していく。もうなんといわれても構うものかと思った。オークション会場で呼び止めた時こうなることは判っていたのだ。
 貸与、と彼の唇が動いた。そうよ、と彼女が繰り返した。彼が今日とんでもない額で落札したあの絵を事実上寄越せといっているのだ。無茶苦茶だ。
 三つほど数を数える間のあと、青年が、爆笑した。
「……ッ、ご、めんなさい、シニョーラ…! あはは大胆ていうかああもう、貴女最高ですね」
 くっくっくと未だに肩を震わせているツナヨシにアーシアは憮然となったが、自分がテーブルを叩いて立ち上がっていることに気付くと慌てて座りなおした。まるでフォークで彼を脅していたみたいだ。そこには少し前までの完璧に優雅な食事風景など微塵もない。ドルチェの端が少し溶けかけていた。
「先程お誘いした時、貴女はもう腐るほど時間があるとおっしゃった。既に職を離れられた、と認識しましたが」
「ええ首よ、それでもよ。あの絵は、あの場所にあるべきなの」
 アーシアは辞表を出したその足でここに来たのだ。笑いの衝動が収まると、ツナヨシはふっと真顔に戻った。それに釣られるように彼女もまた静かに応えた。
「二択ならば応えはノです。実際のところ僕は代理の代理といったところで、あの美人に対して決定権は持っていない。そして貴女も」
「父が」
 父が話していたの。あの『聖母子』の思い出を。幼い頃によく聞いたわ。昔の話。アーシアは自分でさえ今の今まで忘れていられた『理由』を噛み締めていた。まったく、なんて個人的な感傷だろう。けれど芸術が人に与える感動の中にはそんな感傷が大きな意味を持つことだってきっとあるのだ。
「ごめんなさい」
 なぜツナヨシが謝るのだろう。あなたのせいじゃない、アーシアは首を振った。

◆ ◆ ◆

「おはようございます!」
「おはようアーシア、小包が届いてるぞ。いい加減ここを受け取り場にするのは」
「主任が経費で入れて下されば何の問題もない技術書なんですが」
 彼女のアパルタメントにこれ以上の休暇はやらんと電話が鳴り、『聖母子』ではないが同じ作者の円熟期の秀作がとある財団から寄贈されて、アーシアの生活は元の取りとめのない日常へ駆け足で戻っていった。
 相変わらず主任は胃薬を愛用しながら新聞を読み、館長と事務長は財政のやり繰りに頭を悩まし、アーシアは作業着で埃に塗れながら糞不味いカフェを飲んでいる。彼女の目下の目標は古画修復技術の底上げだ。気さくな専門家(希少)のところへ学びに行くし、研修になら出してやるともいわれている。勿論企画展の計画も立てる。キュレーターはそうあろうとすればとても忙しい。
「おや、ロッセリーニが亡くなったのかい」
 主任が経済紙を掴みながら頓狂な声を上げた。
「? 誰ですかそれ」
「若い人は知らないのかねえ、悪くいえば伝説の山師だ。その道の有名人だな」
「よく言えば?」
「そんな語彙は知らないよ」
 ジョルジョ、アーシア、とドアを開けて部屋にいた二人を館長が呼んだ。何だろう。心なしか蒼褪めているような。明日はとても大切なお客様がいらっしゃるから君、アーシア、せめて普通の服に着替えてくれんかね。館長は赤くなったり青くなったり忙しく彼女のむくれ顔など構っている暇はないようだ。主任とアーシアは肩を竦め、そして彼女は男どもとは別の意味で驚くことになる。

「本当にツナヨシ?」
 目の前にいるのは一年前に出会った、アーシアの日常から離れた場所にいた人。
「遅くなってごめんね。これが彼との約束だったから」
 人生の最後を『聖母子』といられてとても幸せだ、幸せだったと、そういって天に召された方の僕は代理です。
「この通り、『聖母子』は確かにお返しに参りました、シニョーラ」
 見たこともなかったのに酷く懐かしい、聖母の眼差しがアーシアを、すべてを見ている。呆然と声もない彼女にツナヨシはいった。その声がどこか寂しそうで。
「ねえアーシア。彼は貴女にも感謝していたのですよ。老人の我侭を許してくれて有難うと」
 馬鹿ねえ、どうしてあなたが私にお礼なんていうの。私知ってたの、解ってたのよ。全部、ぜんぶ。
 驚きに眼を剥く男たちの前で、アーシアは花束を抱えながらぽろぽろと泣いた。

夢をみたいことってあるじゃないか…。みすぎですかそうですか。私確かにリボツナですよ。ええ本当に。
ところで綱吉の一人称が僕。かしこまって僕っていっちゃうあのこが馬鹿可愛いと思います。誰かタイトル考えてください。

2005/11/19 LIZHI
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