安如泰山

「―――あら」
 たおやかだが、どこかしらとぼけた声音が庭の裏手で短く上がった。


 鼻を擽る甘い香りは、気付けば息苦しいほどだ。
「……藤?」
 尻上がりな発音は、今ひとつ己が判断に自信が持てぬ所為である。
 ぽってりと廊下に通学鞄を下ろしたリクオは、唐突に現れた、としか主観的にはいいようのない、青紫というよりまさしく藤紫色である花を凝視した。美しさに眼を奪われたのでは決してない。否、間違いなく美しいのだろうが、覚えずスケール感が狂うほど、その花房が長大過ぎるのだ。
 悠に一メートルは越そうかというその藤は、リクオの腰丈はある壷だか瓶だかに活けられ、尚且つ、床すれすれまでその房先を優雅に垂らしている。六尺藤、九尺藤、と呼ばれるそれらが時に驚くほど長い花穂をつけるとしても、庭園で遠巻きに眺めるのと玄関先にどんと在るのでは、存在感の桁が違うらしかった。
 長いというより兎にかく大きい。が、決して不似合いではなかった。どころか、重厚かつ可憐な花は、それを支える土台と相まってしっとりと屋敷うちに調和している。
「うちにこんなの、あったっけ」
 疑問はそこだ。
 無駄に広大な庭の水遣りは、長じてリクオの担う家事手伝いのひとつではある。それとて雨が少なく乾いた日が続けばで、特段、花だの樹だのに情熱を注いでいるわけでもない。巡る季節に開く花の彩りは覚えても、その名称だの性質だのまで詳しく理解はしていない。同年代の少年らよりは幾分増しな程度であろう。毒草薬草、ひいては動物、魚、蟲、鉱物に至るまでが守備範囲である年上の幼馴染とは違うのだ。
 それ以前に、こんな巨大な代物が庭にあったなら、気付かないほうが可笑しいだろうと思う。
 そこらの花屋でおいそれと扱うような代物では到底ない。花材としても圧倒的過ぎて、現に活けたのは母なのだろうが、他のものと取り合わせるのは端から諦めたような潔さである。
 藤娘、といったものを脳裏に描くが、勿論筋立ては知らない。
 リクオは、すん、と鼻を動かしてみる。矢張り、ともすれば酩酊しそうに甘い匂いだ。
 これほど大きいものになれば花序は大抵粗くなるものだが、びっしりと付いた如何にもマメ科の花は、掬えばたっぷりとした重さを掌に伝えるだろうと思われた。
 我が家のご近所付き合いに疎いリクオでは、何処其処からの貰い物、といった想像も難しい。
「―――様、リクオ様」
 ぶつん、と糸でも切られるような感覚があって、声の方を顧れば首無が怪訝そうに浮いた首を傾げている。
「どうなさいました? こんなところでぼうっとして」
 おやまあ、鞄も置きっぱなし、制服のまんまじゃ御座いませんか。着替えてお楽になさいまし。それほど時間が経っているとは思わなかったが、裾を引っ張る小妖怪たちにも気付いていなかったのなら、不審に思われても仕方がない。リクオは出かけた苦笑をそれと判らぬ笑顔に変えた。昔の悪戯仲間とは、随分サイズが違って了ったものだ。
「ねえ、これどこから?」
 予想通り母の手になる花の出所は、納得のいくようでいかぬ裏庭である。

 疑問など、現実を視てしまえば口を閉ざすしかなく。
 屋敷の裏手に当る庭には、見事な藤紫色をした、小山があった。
「……小山、っていうか、滝?」
 リクオを先導するようにちょろちょろと歩いていた小さな姿は、既にどこかへ行って了って見当たらない。それを不思議にも思わなかった。
 古老か仙人のような印象の曲りくねった幹を覆い隠すほどに、長大な花房が零れんばかり垂れ下がっている。外から見えれば、藤屋敷と呼ばれていても可笑しくはないだろう。
 けれどもこんなところに、これほど立派な藤のあった憶えがない。
 憶えはないが、どこかしら懐かしい。酩酊するような甘い匂いに惹かれるように、リクオはふらりそちらへ一歩、二歩と近づいた。
 それが、有り得ないものであることは、判っていた。
 と、いうより、有ってはならない。
 確かに。花時を逃した花木は、辺りに溶け込んでどれもみな控えめだ。夏や秋にはそこにあることすら気付かなかった桜に、春ともなれば一喜一憂するように。人の意識は勝手なものだが、さりとて数日前には蔓の気配もなかったものが、今これほどに見事な花を咲かせる非常識があっていいとは思われなかった。
 ―――けれども。
「待って、いたのか?」
 自然、口調が変わったことに気付いたのは背後の男で。
「ああ、やっぱり綺麗だな」
 柔らかな弧を描いた唇が落としたのは、素直な感嘆だ。
 それを喜ぶように、花は風に吹かれてたおやかに揺れる。揺れた穂先がリクオをその先へ誘うかに見えた時。
「余り、引き摺られないでください、リクオ様」
 小さくはない力で両肩を引き寄せられた。勢い、背後の首無に背をつく格好になったリクオは、その手をすいと払った。
 代わりにくるりと振り仰ぎ、
「何でさ、こんな綺麗なのに」
 お前が一瞬感じた異変こそが幻だったとでもいうように、リクオの様子はいつも通りだ。首無は主の変化に気付きながら、答えた。
「ええ、確かに、リクオ様であれば大丈夫なのかもしれません。ただ、今朝からこちらには屋敷のものは近づきませんので」
 念のためだ、と首無はいいたいのだろう。
「お母さんは、来たんだろう?」
 第一これほど唐突に花開いたものに、母は驚かなかったのだろうか。そうだ、それこそが不思議ではないかと思って、尋ねれば。
 あの方は、特殊ですから、といって世話係は態とらしくも困ったように微笑んだ。
 ―――妖は所詮、陰気の性なのですよ。
「我ら元を質せば天然自然の気の現れではありますが、多くは陰に傾きます。現代妖怪 わかぞうども などは人の陰気の生んだそのものといっても構いませんでしょう。より直截で悪意に満ちた」
 まるで自分達はそうではない、といった口吻である。リクオは少しだけ鼻白む。
 ―――陰は陰を呼びます。人と妖の縁は切っても切り離せませんが、近付き過ぎて善い事は御座いません。あくまですれ違い、通過するもので御座います。
 そうしてふう、と一つ息を吐き。
「妖に近付き過ぎれば、破滅する人も御座いましょうね」
「それって、さあ」
「はい」
 首無はそれはにっこりと、出来の宜しい生徒を見るように頷いた。
 ―――詰るところリクオ様のお母様もおバア様も、人間としては大変に、特殊な方方なのですよ。
「陰の気に触れて陰に傾かず」
 ―――まるで当たり前のように日常生活を営める精神がどれほどに得難いか。
「我らをそうと意識さえせず受け入れることの能る、稀有なお方です」
 詞 ことば は何故か、リクオではないものに聞かせるように響いた。

 宵の口、障子越しのその女性は、ころころと鈴を転がすように笑った。そんな浮世離れした表現の、不思議と似合うひとである。
「手間の掛かる子で、ご免なさいねえ」
 廊下に膝を突いたのは、差し向かいになることを首無が遠慮したためだ。彼女は何事も受け入れるが、それは交わることとは別物である。
 いえ、と首無は、ある意味発端であるひとに返した。
 あの藤が、若の精神に糸を伸ばしていたのは明らかである。
 咄嗟に糸、と捉えたのは、首無自身が主に使う得物のためだが、より正しくは蔓であったのかも知れぬ。あの一瞬、木質の蔓に取り込まれる若の幻影が我が身を動かした。
「若は少少、神気の類に好かれ易いようで」
 いいながら、首無は少しばかり可笑しく思う。陰に生まれたものどもを率いるのは、決して陰気に傾かぬ女の胎から生まれた、神気に愛される子どもなのだ。
 恐らく<彼ら>が好んで若を傷つけることはないだろうが、無垢な想いが常に無害であるとは限らない。疾うの昔に折れて埋もれた切り株が、俄かに蔓を伸ばした挙句全盛期の花を咲かせるなどとは。それだけで、世の理を逸している。
 ―――待っていたよ。
 そんな声無き詞すら聞こえたようで。
「そうねえ、思えば桜も長かったわ」
 きっと今年のお庭は賑やかねと殊更暢気に紡ぐ彼女が、何をどこまで理解しているかは杳として知れぬ。
 しかし、藤が退いたのは首無の牽制にではなく、その一部を、屋敷のうちへと招かれた礼儀がためではなかったか。
 遥かにあって深く、仄白い薄闇のような。ただ人でありながら不動の人を、交わらぬと知りながら確かに敬う。


 ですからね若、と、首無は我らの若頭に告げたのだ。
「あの方は―――奴良組の姐さんなんですよ」

藤の花言葉は「歓迎」「恋に酔う」「陶酔」、あるいは「佳客」。他「あなたに夢中」「至福の時」。
本誌でまだGWだったから(吃驚)、桜はぬら孫に欠かせないけど、藤もよいよなと。まあ気の迷いだ。
すでに七不思議に近い、奴良家母と祖母の謎。そもそも妖怪見えてますかと思うほどにニュートラル過ぎる母。蝦夷六十三番地の伊達丸さまも示唆していらしたので(笑)ちょっと形にしてみました。しかし不完全燃焼。矢張り公式を待ったほうが善かったか。

2008/06/09 LIZHI
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