正しい日本人のススメ

 ご近所さまと子ども達には化け物屋敷と呼ばれようともそこはそれ、風情溢れる奴良家といえどもテレビに新聞くらいの情報媒体は入っている。主人に嫁したのは二代に渡り人間の―――と注釈が入るのはここが正真正銘妖怪屋敷であるためだ―――女性であったので。当然のように時代の風というものは、その時時に、塀の中にも吹いていたのだ。
 その風が、外に比して緩やかであることを否定はしない。

「近頃、熱心ですな若。面白い連載小説でもありましたか?」
 黒田坊は、只今戦争中であるお勝手組から渡された、程よい温度の湯呑み茶碗を盆に載せたまま邪魔にならないところへ置いた。万が一にもひっくり返して、大切な若に火傷でも負わせてしまっては事である。後頭部しか見えなかったリクオは、ん、ありがとうと顔を上げた。そのままぐいと両腕を上に伸ばしたかと思うと、きゅううと背伸びの真似をする。恐らくは座ったまま、背中を丸めて字面を追っていた所為だろう。
 朝が忙しい小学生は朝食ならぬ夕食前のひとときに、世のお父さん宜しく新聞をしかし躰に余るサイズの故に、畳に広げて読んでいた。ここ数日に渡って目撃されている光景である。世のお父さんと違うのは、健康優良児童であるリクオ少年が、所謂肩こり腰痛の類とは無縁なことだろう。けろっとして夕餉を頂く姿が眼に浮かぶ。
「で、何? れんさいしょうせつ?」
「違うので」
 昔、結構好きで読んでましたがねえという黒田坊は、数年前かそれとも十数年前かに、一年間読みきった時代小説の題名だけを漸う思い出した。跳び跳びにでも読み続けるという、善い意味でのいい加減さに恵まれないため、一回読み逃すともう先に進めないので最近はとんとご無沙汰だ。
「では、一体何をお読みになっているので?」
「あのさあ、黒、新聞って何だか知ってる?」
「存じてますよ、今時の読み売りでしょう」
 おおよそ間違いではない。
 別にオレだってこんなちっこい字を真面目に追いかけてるわけじゃないけどさ、と嘯いてリクオは畳んだそれをぽいと放り出した。どうやら用は済んだらしい。ふうふうと、両手で持った湯呑みの水面に小波を立てている。
 どうやら若は、学級新聞なるものを作ることになったらしい。
 その前段階として、新聞に普段どのような記事がどのようにして載っているか、という下調べから始めるという。迂遠な方法であると黒田坊などは思うが、自分で作るものがどんなものかも知らないでは、なるほど先には進めまい。
 行動派な若君であれば新聞記者といったあくてぃぶな職業も、なかなかお似合いかも知れなかった。勿論、若の将来の職業は奴良組三代目で決定済みだ。
「して若、一体どのような記事をお書きになるので?」
 読み売りといえば痴情の縺れ、お上の不祥事、奇奇怪怪な風聞伝聞。時代は違えどその中身には大差がないというのが、少なくとも一年間は時代小説目当てに眼を通した黒田坊の感想である。学級新聞とはいえ読み売りの一種であるからには、人に好んで読まれなければ意味は無い。となれば扱うのは当然、痴情の縺れ、お上の不祥事、好色に彩られた奇奇怪怪な風聞伝聞―――。
「なりません、なりませんぞ若ッ!」
 若が穢れてしまいますううううと、突如、男泣きだか何だかよく判らない発作に見舞われたらしい黒田坊に、
「お前学級新聞を何だと思ってるの……」
 面倒臭いことになったとリクオは肩を落としたが。この家の場合それで話が終わるはずもなく。
 相方の大声に青田坊がすわ出入りかと駆けつけ、ご飯ですよの大号令とともに現れた雪女は、疲れた顔のリクオにもしやお風邪でもと慌てた拍子、持っていた味噌汁を鍋ごと凍りつかせた。
 その後、夜遅くまで屋敷妖怪どもに新聞のなんたるかを四苦八苦しつつ説いた結果、リクオは担任教師に褒められるくらいの主張と認識を持つに至ったのだが。
「全然嬉しくない」
 と、提出物についた花丸を眺めながら、深い溜め息を吐くことになる。

 軽やかな、いってきますの声を聴き、門へと向かう後姿をお見送りするのが屋敷妖怪どもの変わらぬ日日の小さな楽しみである。
「眼鏡、眼鏡忘れた!」
「おや、そういえば」
 中学の制服を着た若が駆け戻ってくるのに、別段御不自由はないでしょうにといいつつも、主の言葉に否は唱えぬ首無がトトッと廊下を小走りした。中学に上がる辺りに愛用され出した小道具は、ルール遵守の若が遅刻と天秤にかけるほど、今や重要不可欠な要素であるらしい。
 黒田坊は、数年前に若が書かれた学級新聞の担当記事を思い出す。
 日本人の三人に一人が眼鏡をかけているという、実しやかな新聞記事を検証するため一年生から六年生まで学年別、果ては教師陣から用務員に至るまで、学校中の眼鏡率をはじき出しグラフ化した、それは中中の力作であった。妙に眼に残っているのは注釈として付けられた、なんたらいう明治辺りの風刺画家のやけに特徴的な当時の日本人図なのだが。
 黒田坊の思う読み売りとは、どうやら違うものだったらしいので大層安心したものである。それが何の役に立つのかなどは、己如きの与り知らぬところだろう。
「やっぱり、立派な日本人としては眼鏡がないとね」
「いや実にお似合いです」
「若、いっそウチんとこの単車でお送りしやしょうか」
「校則違反だよ、青!」
「そうだ、これ以上の抜け駆けは許さんぞ青!」
 あいつら呼べばすぐなんで、という青田坊を嗜める若を頼もしげに眺めながら、黒田坊もまた突撃隊長の任を争う舌戦へと参加する。最早単なる反射行動である。
「ほらほら皆さん、本当に遅刻しますよ」
 手を叩く首無に急かされ、二度目のいってきますが少々慌てた風に告げられる。
 さてと母屋に戻ろうとして、視線を感じて隣を見れば首無は、別にと素っ気無く。
「リクオ様が宜しければ、それでいいんですけどね」
 そうだなと黒田坊は、善く解らぬままにそれが事実だと頷いた。後の返事はなかったから、もしかしたら彼の独り言だったのやも知れぬ。
 ―――何となく、どこかが間違っているような気がするのは、気のせいだろうと思うことにした。

…私は学級新聞を何だと思っているのか。今時の小学生は世界規模なネタを選択しますが、過大プロポーションは道理を弁えた場合のみ有効です。なのでリっくんはこのくらいでいいのです。
ほとんど明らかだった伊達眼鏡説をついに原作が裏打ちし出したので今のうちに。根底は変な思い込みに違いないと真剣に思ってる。黒田坊のぼけっぷりが大好きなんですが、書こうとすると意外に難しいオトコです。

2008/06/01 LIZHI
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