無銘長夜

 それは、朴 ほお の素鞘 しらさや に収められている。
 嘗ての拵を知る術はなく、ただ、一重はばきが刃をきっちり留めているのみの、そもは休め鞘である。
 動乱の頃には長脇差などと呼ばれ、しかし寸尺でいえば打刀で違いない。昔の侠客が用いた方便は意味を失くして久しかった。呼び名がどうあれいずれ殺生の道具ではある。
 奴良の屋敷に伝わる一振りだ。
 これの、中心 なかご を抜いて改むるに、目釘孔と鑢目が、うっすらと時代の美しく浮いた錆とともに現れる。中心は刀剣の柄の部分に当たる、研のかかっていないここに刀匠が鏨 たがね によって己の証を刻むことを、
 ―――銘を切る。
 などという。
 冴え渡った刃の色には曇りのひとつも見当たらぬ。
 名のある刀匠の在銘物―――などではない。専門家に鑑定させれば何処其処の何某が作と判断されるにせよ、そのような話が出たことは、奴良の家ではついぞない。
 無銘の品である。
 磨り消されたわけでなく、どうやら元から銘を切られた形跡がない。刀匠が出来を恥じたせいでないことは、造りの見事さから解る。
 或いは、作手にのみ感ぜられる瑕疵があったか、全く別の理由なのかは窺い知れぬ。ただ、無銘であるという事実だけがそこにある。
「運があればどこぞの宮さんに納められておっても、可笑しくない」
 と、いつか刀の上を通り過ぎたうちの誰かが惜しむように、また暗い悦びを滲ませながら口にしたとしても、刀にとってはまるで意味のないことだった。寧ろ、
 ―――冗談ではない。
 びりびりと反発したのが、器物である刀が始めて己というものに眼覚めた瞬間であったかも知れず。それが刀匠の込めた魂のなせる業なのか、血脂に塗れ続けた年月のためなのか、文字通り鎬を削る闘いのうちに感得されたものなのかは、定かでなかった。
 
 濡れたような闇がある。
 
 月の無い夜の水。眺めていれば引きずり込まれるような、奇妙な重力を湛えた色である。黒のうちにまた黒が揺れ、とろりとした五彩の闇に、引きずられるように進んで行くと、そのように思われたい。
 すい、と白いものが行く手に現れる。
 能く見れば、疾うに季節を過ぎたはずの桜花。枝もなく、幹もなく、雪に見紛う花だけが、くるくる、くるくると降りかかる。
 果敢なく、白ら白らと浮き上がり、舞い落ちるかと思えば足許を染めることなく、暗冥に呑まれ消え失せた。
 どうやら己は人形をとっているらしい、と、草履の鼻緒を見て思う。
 思う故には個であるが、付喪神とは似て違う。何某の精とかいった昇華とは余りに遠い。妖ではないが、個である以上、妖刀の類ではあるかも知れぬ。とはいえ刀は刀のままであって、化けて出たりはせぬものだ。
 つまりは、現であろう道理が無い。
 来し方知らずの花吹雪が、勢いを増したかと思う間もなく花闇に包まれた。と、ふいに清涼な匂いがした。
 取り巻く青竹の林をさわさわと風が奏でた。
「―――またお前か」
 気付けば、緋毛氈の上に端坐している。草履はどこへ行ったのか、とどうでもよいような心配をした。ぽっかりと澄んだ明るい空間はまるで野点の風情である。
 この男なら、茶よりは酒であろうと思う。
 そうそう気安く呼んでくれるな。闇色の着流し、鶸萌黄の羽織の亭主に告げた。
「呼ばれて来たのはお前だろうに」
 白銀色の髪を持つ男は、くつくつと笑みの細波に肩を揺らせながら返した。
 妖の総大将、その孫と呼ばれる男である。
 仮令現に非ずといえど明るい最中に姿を現すのは珍しい、夜の住人である。勝手な主だ、と刀は短く嘆息した。
 青竹の匂いを感じ、風の音を心地良く聴く、言葉で意思を交わすことも、全ては主の夢で己が人形をとるせいだ。その、主といえば。
 心なしか表情が柔かいのは月下の陰影とはまた違う光のためか、それとも男の膝に頭を載せたまま、健やかに眠るこどものせいであるかも知れぬ。
 まるで対照的な生成りの紬、それを深い色合いの江戸更紗の帯がきりりと締めている。男の肩を離れた鶸萌黄が小さな躰を護るようにふわりと掛かり、ふっくりとした頬に流れる髪を長い指が梳くように繰り返し玩ぶ。今にも目を醒ますのではないかと、刀はいらぬ心配をする。
 能く見れば、どことなく似通った面立ちをした二対は、まるでそこだけで全てが完結しているさまだ。思って、当たり前かと思いなおした。
 二つは、そもそも一つのものなので。
「坊は、夢の中でも眠ったままか」
 主の性 しょう の片方であり、主そのものであるこどもを見ていった。
「起きれば消える」
 男は何でもなさそうに、空いた片手でぷつりと近場の青葉を千切る。見れば盃の載った漆盆の上で、蒔絵の桜文様がゆるらかに流れていた。人知れず繋がる道がそこにある。
「消える?」
 酒のことを、また竹葉という。
 男が青葉をそっと傾ければ、盃はたちまちに美祿で満ちた。どこかしら不穏な音の連なりは、真意の窺い知れない男の舌で転がされ、奇妙に甘く響いた。
「夢から醒めるか」
「いいや、消えるのはオレとお前だ」
 ―――これだから、カラスの奴が口煩いのだのだと肩を落とした。この男は、圧倒的に言葉が足りぬ。
 もそっと解るように話せと苛立ったのが通じたのだろう、そうさなあ、と男がいった。
「これはオレの人の躰が見る夢で、お前が刀の性であることには違いがねえが、今ここに居るオレとお前もこの風景も、こいつが夢の中で眠りながら見る夢なのさ。ただそれだけのことだ」
 なんとまあ。
「まるで大蛤の吐く気だな」
「そういうな。久しぶりに引き合わせるのも面白かろうと思っただけだ」
 リクオは忘れているが、本当には覚えているからな。お前が人の姿を取るのはそのせいだろう。
 昔、気に中てられて意識を手放した幼児と、夢のうちに出遭ったことがある。
「妖刀を玩具にしようという、豪気なこどもであったからな」
「とって喰う気も失せたか」
「何を他人事じみたことを」
 尽きぬ盃を酌み交わしながら、眼覚める様子のないこどもを見下ろした。
「坊は、忘れるか」
 所詮は夢の中の夢のこと、紛れ込んだ古馴染みの顔などは、記憶の表面に浮かび上がることなく消えてしまっても仕方ない。
「さあなあ、別にどっちでも」
 男は、その性のままに闇色の咲みを浮かべていった。これが、覚えていてもいなくとも構やしねえよ、ただなあ。
「力が欲しいと、これが心に頼んだときに、応えてやれさえすればそれでいい」
 ―――オレもお前も、名などなくとも。
 そうか、と刀はいった。そうだ、と主はいった。
 呼ばれれば、応えるだろう。主であれ、坊であれ、彼がそれを心に頼むのならば。
「ところでお前、いつまで五歳児なんだ」
「仕方なかろう。坊がいっとう最初に感得したのがこの姿だったんじゃ」

 花の闇はいつまで、と。

蝦夷六十三番地さまと繋がっちゃいました記念リクエスト闇昼、のはずのおかしなブツ。リクというかリクを強奪しました。なんという迷惑者。伊達丸さまだけにいつまでもDLフリー。
リっくん寝っぱなしでご免なさい。原作で(出番の減った)あの刀について補完されるかどうか不明なうちに妄想してみました。名前が出たら違う刀ですといい張る所存。

2008/05/24 献上
2008/05/29 サイトup LIZHI
No reproduction or republication without written permission.

CLOSE