路地裏の姫

 立派な人間とは良い人間、人人の役に立つ存在のことである。
 ―――と、幼いリクオ少年が幼いながらもひとつの結論に至ったには、偏に身近な反面教師に学んだことが大きく影響を及ぼしている。とはいえ迷い道の真反対を行ったところで正しい目的地に向かうとは限らぬように、リクオ少年の認識もまたどこかしらずれた歪なものだった。
 そして歪というものは大抵の場合、本人にだけは気付けぬように出来ている。
「あ、はい。いいですよ」
 学校からの帰り道のことである。小柄な眼鏡の少年は珍しくお供を連れず一人だった。
 自分よりも随分と長身の相手に前を塞がれ、後ろを押さえられてリクオは軽やかに返事した。貸してくれというからには、先様は何かに困っているのだろう。西に困っている人がいれば駆けつけて手を差し伸べ、東に悩んでいる人がいれば一緒になって解決策を考える。それがリクオ少年の目指すところの人というものである。
 しかし少年は決して正義の味方なのではない。
 彼は己が存在のマージナルであることを、認めはしないが知っている。帰属意識の強さは不安定の裏返しだ。<他人>は知らずとも<自分>はその足場の不安定であることを確かに認識しているのである。誰しも自分を謀ることは出来ない。
 そうした前提に立つ限り、リクオの選択する行動は常に過剰な方向に振り切れる。当人は正道を行っている心算であるから、正すのには相当の苦労を要するだろう。
 この場合、連れ込まれたのは人通りを避けた路地裏である。いかな人の好い暢気者であっても怯えるなり逃走を図るなり理不尽を訴えるなり、なにがしかの行動に出るのが普通の反応だ。猟師は身の危険を感じた獲物が叶わぬ足掻きに表情を引きつらせるのが楽しいのであって、眼鏡の奥の大きな瞳をきらきらさせて見上げられれば遣りにくいことこの上ない。
 どういうわけか、先程からいっこうに負の情動を見せることのない少年だった。気丈に隠しているのではなく、もとより感じていない様子である。学校指定の鞄は潰されることもなく綺麗に形を保っており、制服の襟元は少少崩されているものの大人しく目立たない生徒だろうと思われる。要するにカモ以外のなにものでもないのだが、思えば今時大人しく目立たない善い子が何をやらかすか解らないというご時世だ。
 連れ込んだほうの不良の皆さんはこの時点で、眼前の従順そうな獲物が実はあんまり性質の良くないものであることに、本能的に気付いていた。
 これが本物の猟師であったなら、その<何だか能く解らない不安>に忠実に獲物を放したかも知れない。
 しかし、マン・ハント気取りの少年等の場合はそうはいかなかった。彼等の行動は基本、集団で行われるため、個人に備わった危機意識はほとんどまったく発動されるということがない。詰り、訳の解らない危惧は仲間内に訴えたところで馬鹿にされるか腰抜けと呼ばれる理由を作るのみで、現状を変えるだけの力までは持たないのである。
「あ、すみません、家の者が煩いんでちょっと急ぐんですけど」
 獲物の少年はといえば、お伺いを立ててしまう律儀さだった。いっそ莫迦にされているのかと血管を浮き上がらせても仕方がないだろう。
「んだ、こいつ」
 どっかイっちまってんじゃねえのか、とは過ぎった不安を打ち消すための科白に他ならない。弱いものほど殊更強い言葉を選びたがるものである。この場における強者は間違いなく彼等のほうであるはずなのだが、顔色だけを見るならば、まったく逆の結果が出ているようだ。
 腰が引けている、とでもいおうか。もしも通りのほうから異変を感じた誰かが声を掛けたなら、少年達は脱兎の如く逃げ出すかもしれない。風船に針の刺される寸前で止まったような、一種奇妙な緊迫感である。気付いていないのは狩られる側の少年だけだ。
 ―――どうしたのかなあ。
 もしかしたら、お腹でも痛いのかもしれない。
 唐突に、ぽん、と古典的に両の手を打ちつけた獲物に、少年等はびくりと肩を震わせた。何だ何だと騒めいた相手に構わず、日日立派な人間になることのみを心がけるリクオは徐に懐から錦の小袋を取り出した。すわナイフか銃かと反射的に身構えたハンター達は、転がり出てきた五ミリ大の丸薬を凝視する。少年等は知らないことだが、先日鴆が送ってきたもので、所謂ところの万病薬だ。頭痛、腹痛、歯痛、宿酔い、下痢あるいは便秘に効く。効果は黒田坊で実験済みである。
 詰り、人間に使ったことはまだない。
 が、こと薬、毒薬において鴆ほど信用の置けるものもいないので、リクオとしてはどうぞと勧めることに不安はなかった。目指せ一日一善。
 しかし。獲物が取り出した物体の後ろに何故か禍禍しい気配を感じ取った少年等は、今度こそ一斉に足を退いた。押さえつけられていた本能が、ここにきて表層に現れ始めている。力が全ての裏街道は見栄も重要だが、実は一般市民よりは野性を残すことに寄与しているのかもしれない。
 当のリクオは親切をしようとした相手に一歩退かれて、軽くショックを受けていた。どうしたことか、一日一善が逃げていく。それは困る。何だか困るのですよ。
「え、あの」
「っるせえ、てめえ、薄ッ気味悪いんだよ!」
 勢い、払おうとした腕がリクオのまだ小さな手にぶつかった。錦の小袋ごと、丸薬がばらばらと音立てて飛び散った。あ、と短く声を上げるのと元から薄暗い路地に大きな影が差したのは同時だった。
 もしも擬音を充てるなら、ぬう、というのが大変近い。
「こんなところで何してんすか、若」
 その、ぬう、と現れた大男は、片手に一人ずつ、二人の襟首を吊り上げたまま、他の人間には頓着せずに眼鏡の少年にだけ声を掛けた。恐らく、掛けたと思われた。ワカなる単語は現代日本にそぐわないこと甚だしく、彼等は一瞬意味を掴み損ねた。
 逆立てた髪を後ろに流したスタイルと髑髏の首飾り。妖の姿を名残ほどに残した青田坊は、掴んだ男二人を粗大塵のように打ち捨てると、まあ大体解りましたけどねえと、少しばかり煤けた小袋の表面を払いつつ拾い上げた。次いで、太い指で丸薬を拾い集める大男に茫然としたのは一気に蚊帳の外に置かれた少年達で、リクオといえば下僕の変化時の名前を漸う思い出しながら、こら、と叱り付けた。
「乱暴しちゃ駄目だって!」
「ああ、大丈夫っす。こいつら人間の割に丈夫なんで。だな、お前ら」
 リクオには見えない角度で、ぎんと視線と気配を尖らせた倉田さんに、少年達は青褪めながら繰り返し首肯した。内心で絶叫した。
「そんで若、この薬、こいつらにやって宜しいんで?」
「うん、でも落としちゃったからなあ」
「平気っすよ。こいつら腹も丈夫です」
 だな、と訊いて否とはいわさない。腹が丈夫ならそもそもこんなところで腹痛などおこすだろうか、という疑問は捨て置かれている。
「さ、若の有難い思し召しだ。呑め」
「くくくく倉田さ」
「ん、どうした、嬉しくて声も出ないか。そうだろうそうだろう」
 ワカはお優しいからなあ。
 駄目だ。ここで逆らっては生命の危機だ。少年達は涙ぐんで応えた。はい、有難く頂きます。いやいや頂かせてくださいお願いします。
「あ、ここは任せて、若はお早くお帰りになってくださいねえ。皆が心配しますんで」
「あのね、幾らなんでも過保護すぎだよ」
「足りないくらいなんですから、そういわず」
「もう、仕方ないな。じゃあ、お役に立てなくてすみませんけど、お大事に」
 ぺこり、と可愛らしく頭を下げて通りに出て行くリクオを見送って、倉田こと青田坊の笑顔は引っ込んだ。替わりに浮かんだのは阿修羅も斯くやの形相だ。ちょっと変化が解けかけているかも知れない。拾い集めた丸薬を水もなしに口中に詰め込まれながら、涙の海に溺れる寸前、不良少年達は己の運の悪さを呪った。
「さあて、ウチの大事なお方に何しやがった?」
 まだ、何もしてません。正直な訴えは恐らくきっと届かない。そういえば、倉田が総長になった経緯に一人の少年が関わっていたらしいことを、誰かが思い出したが、遅かった。
 あなた方、一体どんなご関係ですか―――。
 血畏夢 百鬼夜行総長、倉田。前歴不詳、現在最強。既に彼は生ける伝説だ。
 その男に、下にも置かぬ扱いを受ける小さな少年が、影で若ならぬ<姫>と呼ばれることになるのは、然程遠い話ではない。

リクオ君は血畏夢の隠れマスコットです。

2008/04/11 LIZHI
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