水火氷炭

 染み入るような鹿威しの音である―――。

 古色蒼然、それだけに、現代的な居住空間からはかけ離れた規模を有する奴良屋敷。その広い客間に人影が二つ、奇妙な緊張を挟んで端坐している。
 ―――か、こおおぉん。
 既に夜も深まった時刻の訪いは、人間世界でいうならば非常識とも捉えられよう。とはいえ、彼等の本分に従えばそれほど異なることではない。両者の本分といえばこれすなわち、妖 あやかし であるということだ。
 片や、古い同盟一派であり、先日この家の若主とは正式に義兄弟の盃を交わした鴆。此方、その若主の数多いる世話係の一人、今も胴と頭の間に向こうの景色が見える首無だ。
 互いの距離は、近くもなく、遠くもなく。あくまで向かい合う形は取らず、主人が現れるまでの場繋ぎといった感である。
 何時ものように襖の隙間から中を覗いた屋敷の者どもは、術でもなしに漂う冷気に生命の危険を察知した。ある者は床下へ、ある者は天井裏へと身を隠す。賑わしい本家としては滅多にないような静けさが、客人の通された座敷の周辺だけに生まれていた。多くの者は遠巻きだが、彼等の心中といえば眼を離すのも恐ろしいといった具合なのである。
 恐らく、病弱と噂の客人に茶代わりの薬湯を運んだ首無が席を立てば、曲がりなりにも同盟一派の首領をぽつねんと放り出すことになるだろう。それはそれでこれっぽっちも構わぬのだが、若の命 めい と御為とあれば奴良の屋敷うちが聞かぬわけもないのである。
 ―――か、こおおぉぉん。
 両者の間に必要以上の会話はない。庭の鹿威しだけが同じ拍子で響いている。この沈黙に耐えられるのが首無だったと、ここに彼が居るのはただそれだけの理由である。
 鴆は、組織としては中規模であるが、奴良の縄張りと境界を接する勢力の一つだ。
 その首領といえば、躰に障るために外出もままならないとはいいながら、近頃頓に本家へ顔を出していた。先日、瓦解しかけた組織を立て直すので嘸や忙しかろうとは、表現はオブラートに包みつつ首無の繰り出したジャブである。
 鴆はひくりと蟀谷を蠢かせ、お陰様で却って体調が善いくらいだと、こちらもまた笑みのまま告げた。
 笑みは笑みでも修羅の笑みである。背後がおどろおどろしい。
 薄ら寒い光景だわと雪女が己が腕を摩った。腹芸というものに疎い青田坊が、早く来てください若ぁと大きな図体で涙した。総大将は我関せずで既に屋敷にすら姿が見当たらぬ。今頃は他所の家で当たり前のような顔をしながら、ただ飯でも喰らっていることだろう。その間にも局面は厭な方向に傾いた。ぴりりと空気が電気を帯びる。そこに雷獣がいないのが不思議なほどだ。
「時に首無、ちと聞きてえんだが」
 こいつを用意なさったのはどちらさんだい、と客人が手つかずの湯のみを指した。
「何か不手際でも」
「いやなに、馬酔木と櫟と夾竹桃の匂いがな」
「それはもう、御薬湯で御座いますから」
 にこにこにこ。
 それは―――薬は薬でも毒薬のほうである。座敷の明かり障子を背に、用心棒よろしく庭と正対した黒田坊が笠の下で顔色を悪くした。
 ―――誰だ、あいつを適任だとかいって送り出したのは。
 それは最早、毒羽根吹雪五秒前と化した座敷を見守る奴良組一同、偽らざる心の声だったが、突入するような無謀を起こさないのは偏に我が身可愛さゆえだ。主筋のためなら惜しくない命でも、彼等のために散らす酔狂は持ち合わせてはいないのである。
 因みに、誰も指摘はしなかったが、茶菓子に添えた黒文字も夾竹桃を削ったものだ。褒められはしないだろうが無駄に芸が細かい。薬と毒薬を司る鴆一派、首領の鼻は伊達ではなかったが、気付かれるのを承知で盛るほうの根性も相当といえた。
「狐の手袋や鳥兜でねえあたりが、また陰険だな」
「おやまあ鴆様、人聞きの悪い。毒も薬も過ぎたれば同じこと」
 ―――若に盃を頂いたからってほいほい本家に顔出してんじゃねえよこの病鳥が、とっとと巣に帰りやがれ。
「ふん、違いねえ」
 ―――世話係の青二才が若との間に水を差そうなんざ百年早いんだよ慇懃無礼、てめえの首で鞠突きでもしてやがれ。
「何を勝手に恐ろしい実況中継してやがんだ、雪女」
「だってだって、そんな感じなんだものっ。本家代表としては頑張ってもらいたいけど、義兄弟ってポイントも高いと思うの」
「時時お前が解らん……」
 そんな会話の間にも、ゆらありと漂う妖気が剣呑さを増している。
「お前さんはリクオの教育に悪そうだ」
「若を呼び捨てになさるお心算で?」
 まさしく一触即発。黒田坊がこれまでかと、漸うの突入を考えた背後で。
 庭に、たとん、と降りる音がした。
「好きにやってろ。オレは出掛ける」
 若、と呼ぶが早いか叩き付けるように障子が開いた。慌てた全員の視線の先に、白銀色の髪も鮮やかな着流しの立ち姿。変化したリクオは注視を受け流すように、くわりと暢気な欠伸をかんだ。
「物騒な気配のお陰で眼が覚めちまった―――が、どうやら出番はねえな」
 そこまで莫迦じゃあねえだろう、と、いわれてしまえば返す言葉もない。あわやの気配が霧散したことを確かめて、若主は微かに、けれども艶やかに口端を上げた。
「鴆、てめえも莫迦やってねえで躰をいとえよ」
「あ、おお、すまねえ」
「首無、そいつは捨てても臭ェ」
「はい」
 それでどちらへお出掛けなさるのですかと、訊ねる世話係にはこれっぽっちの痛痒も見当たらない。それには応えず、ふてぇ野郎だなと笑うのは過ぎた悪戯も本気ではないと知るせいか。それとも。
「じゃあ、留守を頼んだ。供はいらねえ」
 若、と突入隊長どもが反論しかけたが、ひらひらと手を振るリクオは聞く耳持たぬといいたげだ。
「西のほうが臭う御座います。お気をつけて」
「―――おう、鼻が曲がるぜ」
 だから妙な誤魔化しはいらねえよ、と顰めた顔に今度こそ首無は頭を下げた。どうやら鴆に対する説明も任されたらしいと、不穏な気配を隣に置いて息を吐く。出来れば総大将に着いて行った鴉天狗が戻る前に帰ってきて頂きたいものだ。煩いから。
 染み入るような鹿威しの音だけが、嫋嫋と後に残されている。

……ウチの首無はそろそろ屋敷衆にボコにされても可笑しくありません。
タイトルは所謂仲の悪いことの喩えです。奴良組のみなさん鴆と相性悪そうで。あと、陰陽師キャラが出てきたので本格的に動き出す前にちらっと触れてみました。臭いってのはまあ喩えなんだけど完全に喩えじゃじゃなくて(謎)、陰陽の術って妖にはなんか臭そうだよなあと。

2008/04/06 LIZHI
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