淡月

 十三年前の夜である。

 ぶわり、と空気が揺れた。首無は湯の入った洗い桶を取り落とし、がんがらんと転がった先で誰かが短い悲鳴を上げた。草木は騒めいて鳥は一斉に飛び立ち、獣どもは慄き隠れ、小妖怪が力場を失って転げた。風が止まった刹那に訪れた、それは紛れもない<変事>であった。
 奴良の屋敷内で爆発的に生じた力の塊が、周辺一帯の大気を押しのけたのである。首無は我に返るが早いか本家に集った妖怪どもの頭を越え、あるいは踏み倒し、桶の替わりに自分の頭を抱えて駆けた。変事の中心に向かってひた走る。己では制御の利かぬような、足の裏を押し上げてくる衝動がためであった。
 産み月の奥方に付き従っているのは、妖怪であっても女性 にょしょう にあるものたちである。雌雄の別は暫定的なものでしかないが、この場合は奥方に与える精神的な影響の方が重要なのは間違いない。
 閉じられた襖の向こうには明るい光があった。
 先程生まれた圧倒的な気配は既にして収束に向かっている。瞬時の危惧を歓声が打ち消し、しかし別な不安が胸裡を過ぎった。文字通り世界を震わせたほどの赤子の第一声。その、人の子の業とは到底思われぬ影響力が、まるで間違いででもあったかのように静まった今はいったいどうしたことか。
「―――四分の一」
 総大将、と。首無は光に背を向けるようにして暗がりに端坐した主に、漸うのこと気が付いた。影の中で火の入っていない煙管が上下する。いらしたのなら仰ってくださいな、と詰るのはやめ、膝を折ると主に向かって礼を取った。
「お孫様のご誕生、謹んでお喜び申し上げます」
「ん」
 紋切り型のそれにぬらりひょんは小さく頷くのみだ。それが、己の如きが早早に言祝ぐことを許された証に感じられる。祝いが列を成す前の、混乱の最中の故といえよう。
「少少―――驚きました」
「はっはっはっ、お前が慌てるとはこりゃ珍しいものを見たの」
 戯言を口にしながら、総大将の表情は幾分思案気に見える。茫洋とした光と暗がりに分断された廊下で、始まった喧騒を背後に聞きながら、首無は主の様子を具に観察した。猫にも似た泣き声は人の赤子そのものであり、けれども確かにこの方の血に連なるものである。
 人としての誕生か。
 妖としての誕生か。
 あの気配の静まり返った今となっては判別のつかぬことではあった。
 燥いだ様子の女人組と、襖ひとつを挟んで廊下は暫しの無言。屋敷の中があちらこちらで賑わいの度を上げてゆく。それでもこの方には判っているのではないかと首無は思う。
「のう首無」
「はい」
 難儀よの、とはいいながらぬらりひょんは莞爾と笑った。そうですね、と首無も笑った。
 人から生まれながら<威>なる力を持って生まれ。その<威>を誕生と同時に人の血が封じたとしても。
「御守り致します。何があろうと」
 ―――それが、十三年前の夜のこと。

 月が蒼かった。
「よお、酒はあるか」
「御座いますよ、リクオ様」
 勝手元に現れた若主は開口一番で欲求を告げた。
 深更である。夜着に羽織姿の少年は当然のように眠りについている頃合だ。日頃悪行駆逐を旨とする彼の科白とは思われぬ。
 眼の前にいるのは姿形はそのままに、人間としてのリクオでは有り得ざる妖力の匂いを微かに身に纏った、謂わば夜の若である。
 時期的に見てそろそろであろうという、こちらの用意を図ったように顔を出す。回数としては多くもなく、少なくもない。青田坊も黒田坊も、雪女も鴉天狗も知らぬ、幾度目かの訪問は矢張り静かに訪れた。
 夜は妖怪たちの時間だ。
 奴良の屋敷の者どももその例に漏れず、いっそ彼等は昼間よりも跋扈しているのだが、どうした訳かこの訪いが他の誰かに見付かったことは、不思議と一度もないらしい。
 昼間と違い眼鏡を外した少年の気配は人ともいえず、かといって妖ともいえず、そのあわいをゆらりゆらりと弥次郎兵衛のように行き来しているようである。
 若の中の妖の血は、ふとこんな月夜に中途半端に目覚めては、昼間の自我の知らぬうちに密やかに存在を垣間見せるのだ。
 そうして何をするでもなく、あっけらかんと酒を所望する。
「ん、旨い」
 一言感想を落としたリクオは、小さな体躯に見合わぬ大杯に注がせて、あとは無言でそれを干した。以前用意した肴はほとんど手もつけられず、酒ばかりをかっ喰らうのが常だった。
 首無が見るにどうやら酒精は、若の人の躰には影響をせぬらしい。どちらかというならば、酒の持つ力そのものを摂取しているようである。
 勝手元には蒼いばかりの月影が差し、とぷりとぷりと酌をする音だけが繰り返し耳を打つ。奥方と嫡男の安眠に配慮して、屋敷の者どもは跋扈はすれども無作法に騒ぎ立てることはない。その片方がこうして起きているなどとは、思いもしないことだろう。
「なんでしたら、屋根で月見酒と洒落込みましょうか」
 リクオが人心地ついたのを見てとって尋ねれば、ここで善いさと若はにやりと口端を吊り上げた。
「隠れ酒ってのは、隠れて呑むから旨いんだ」
 呵呵と笑う様子に、やっぱり隠れていなさったんですねえ―――と首無はそもそも悪戯好きであった若主の性質を思い、謀られたままの同族には、知らないままでいたほうが善いかも知れぬと苦笑した。
「まだお目覚めにはならないので?」
「らしいなァ」
「おやま、他人事ですね」
「仕方がないと諦めろ。こればっかりはオレにも能く解らん」
 てっきりリクオが自分の意思で引き篭もっているものとばかり思っていたが。
「そうなんですか」
「そうなんだよ」
 くっくと笑いを杯に落としては、若主はちろりと楽しげに視線を流す。姿形が昼のままであるにも関わらず、だからか、それがいっそう婀娜である。成る程、人の子には毒であろうと首無は思う。
「そういえば、惚れられたそうで」
「―――いうな」
 人間てのは突拍子もないぜまったくと、最近仕入れた話の種に本人は大層いやあな顔を寄越した。
 護衛についた情報源たちは天から承知の事実であって、だからこそ学校の怪談騒ぎにも同行したことは秘密である。大体あの野郎は昔っから耽美主義なんだよという辺り、もしかしたら昼間のリクオが知らぬ類の知識も持っているやも知れぬ。この若が本当にただ<眠っている>だけなのか、それとも息を潜めているのか、当人の言葉はどうにも当てにはならない。
 外の声を聞きながら、うつらうつらと長すぎる午睡に耽っているのかも知れないが。
 ―――その分、昼間のリクオ様が苦労なさるのでしょうねえ。
 まあ、どちらにしても本人だ。
 杯の出されるペースが落ちたかと、思う間もなく若の小さな頭が揺らぐ。咄嗟に支えに入った首無に後を任せて、リクオは健やかな肉体の眠りの中にすとんと落ちた。相変わらず唐突だ。
「お腹一杯、ってことですか」
 そのまますっと軽い躰を抱き上げて、妖怪たちの眼を盗みつつ若主の部屋へと移動した。すうすうと寝息を立てる少年の様子に、大量に取り入れられた酒精の翳りは見られない。矢張り、肉体がアルコールを摂取しているのとはわけが違うと考えたほうが良さそうだ。
 布団の中に押し込んだリクオが目覚める様子はない。
 日が昇れば庭に水を打ち、いつも通りにおつとめに行かれる筈の若である。首無は枕元に端坐して、かつてと同じ言葉を繰り返した。
「御守りいたしますよ、何があろうと」
 貴方の姿が人であろうと妖であろうと、貴方の中身が人であろうと妖であろうと。何よりも大切な御子であることに違いはないのだ。
 そのためには。
「一先ず、妙な輩は遠ざけるが吉ですかね」
 昼間のリクオが夢の中で魘されたかどうかは定かでない。

本誌に曰く「復活した」というたった一言が気になってご誕生を捏造。まあいつでも捏造だ。
あるいは二代様崩御の際に何かあったのかしら、と思わないでもないですが。それはそれで別な妄想を…。
ところで若はその後の面倒まで手抜かりなく見てくれそうな相手を見定めているらしいですよ。
首無は敵と見定めたら容赦しない。でも清継くんは結構しぶとかったりすればいい。頑張れギャグ要員。

2008/03/22 LIZHI
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