絶対不可侵

 その時、神田は奇しくもリナリーが評した通りに気が立っていた。任務から帰ってきたばかり、という理由だけではない。正確には昨夜の騒動からこっち。胸の内側がざわざわと落ち着かずにいる。あの後、不本意に意識を飛ばした為に上司が何を決定したかは知らぬ。だが、同じ屋根の下にアクマがいることは確実だった。
 お陰で夜明け前の行、木の葉を打ち洩らすこと三回。戦場ならば死んでいる。と、思った瞬間拳にこもった苛立ちに似たものが出口を求めて机を叩いた。
 それが不毛な諍いへの最初のきっかけになったことは、被害者のほうに不運だったろう。

 ああ―――うぜえ。

 ぱちんと箸をおく音が食堂中に響いたようにアレンは思った。
 実際は、それほど大きな音でも威圧的でもなかったかもしれない。しかしアレンの鋭敏な感覚器官は嗅ぎ取っていた。いうなれば、いかにも餌にされやすそうな強い感情。それが誰のものかまで教えるような刺刺しさだ。
 すでに話は回っているのだろう、食堂に足を踏み入れたアレンを見る眼はお世辞にも良いものではなかった。彼は正しく闖入者である。料理長のジェリーはひょこりと顔を出した札付きの新入りに、にっこり笑って「アタシ、アクマは嫌いなのよねー」と一切の欺瞞を挟まずのたまった。
 いっそ清清しい。
「でしょうねえ、注文いいですか」
「おシゴトだもの、何食べる?」
 じゃあ、といって並べ立てたアレンの立て板に水の注文―――全部量多めで―――に、ジェリーは顔色を悪くしたが、きっちり請け負った。そうそう、と、どうでもいいことのように文句が付け足される。
「アタシ、たくさん食べる子と可愛い子は好きよー」
「それはどうも」
 思いがけず成立したひとときの暢気な空気を切り裂いた、誰かさんだった訳である。
 フライパンを振り回すジェリーが「あーあ」と呆れ気味に呟いた。
 
 本当のことをいってどこが悪い、と神田は思う。口に出していたかも知れない。
 弱い奴は戦場にいるべきではない。
 事実を受け止められない奴もいるべきではない。
 犠牲は常に在る。それはエクソシストも例外ではなく。
 死にたくないなら逃げればいい。命を懸けると決めたなら貫けばいい。命を懸けると己で決めた人間が死んだからといって、それを周りが勝手に嘆くのが侮辱でないとどうしていえる。ついでにいうなら蕎麦が不味くなるのも許し難い。
 己より勝る上背から繰り出された拳は、蠅が止まるように神田の眼に映った。
「死ぬのがイヤなら出てけよ。お前ひとり分の命くらいいくらでも―――」
 代わりはいる、といおうとした矢先。ぎりぎりと掴んだ喉首は太いばかりで、へし折るのにさして苦労はしないだろうと思われた。取り巻いた探索部隊の面々が、同僚と彼らの希望であるエクソシストの争いに途方に暮れる、その緊迫を破るように能天気な声が届いた。
「はい、ちょっとすみませんよ」
 食べ物の山が喋った。そのようにしか見えなかった。
 食堂に集った面々が唖然とするなかを悠々と進む。熟練のウエイターか曲芸師の如く、大量の食料を躰のいたるところに載せた人間が、周囲から遠巻きにされた件のテーブルにどさりと積荷を下ろした。忘れもしない白髪に神田の頬が派手に引き攣る。
「……てめえ」
 拍車のかかった三白眼に周囲がずざ、と躰を退いた。吊られた仲間はそのままの位置で泡を吹いている。許せ、と彼らは両手を合わせて涙した。
「あ、すいません。続けてくださって結構ですよ」
 いやいやいやいや。
 とぼけた愛想にそうじゃねえと血管の二三本は切れる勢いで叫ぶ。拍子に、泡を吹いた巨体をぽいっと放り出した。受け止めた数人が呻き声とともに下敷きになったのは見向きもせずに、身軽になった神田は先程の数倍の力を込めて天板を叩いた。
 ぐらり、と皿の数々が揺れるのを銀灰色の双眸が鋭く映したが、それに気づくものはない。
「……な ん で わざわざこのテーブルに坐りやがる?」
「だって、これだけ置けそうな空席がここしかなかったんですよ、仕方ないでしょ。あ、もしかして貴方嫌われ者ですか?」
「やかましいッ! というかお前それ全部喰う気か?!」
 アクマだろーが! と尤もなようでずれた詰問をする神田は、どうにもペースを狂わせるこの相手を打ち負かせるのであれば何でもいいとばかりに詰め寄った。アレンは聞きたいんですかと首を傾げた。どうしようかなあと煮え切らぬ様子に神田が六幻に手を伸ばすより先、ぴっと人差し指を立てて曰く。
「殺人衝動はアクマの本能なんです」
「それがどうした」
「僕は改造アクマとしても特殊なほうですけど。……本能を効率よく置換するにはさて、どうしたらいいでしょう」
 さっさと席に着き、話しているうちにも器用に食べ物を口に運んでいた少年は、脅威の速さで辿り着いたデザートのみたらし団子を銜えて―――
 にたありと笑った。

「だから邪魔、しないで下さいね?」

 その場に居合わせた者たちは、探索部隊も科学班もエクソシストも関係なく皆一様に背中に厭な汗をかいた。
 以来、彼の食事中は絶対不可侵として囁かれることになる。

……コレがやりたかったからといっても過言ではない(え)
(ちなみに)運悪く遭遇したリーバー班長は大人しく壁に隠れていたそうな。

2006/11/09 LIZHI
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